驢鞍橋 / 卷下
又我後何と爲たらは、人に何云はれん抔と思ふことなし。右の如く出家して諸方を行脚し、野山に臥し、衣食を詰め、又一頃は、律僧に成て身を責め、三州千鳥山に在て律を行ひたる時分は、麥粥麥飯にて送りける、如是しける間、風雨に身をさらされ麁食に脾胃痩れて病起り、既に大事に及ふ、樣々療治を加ふれとも本復せす、餘多の醫者盡く放す。我も一定死に究めけり。位詰に成り、何とも活きらるべき樣なかりければ、近里の、親類共皆走聚る、我弟大畧の醫者にて有りけるが、此の由を聞き來りて言ふは、藥も何も入らぬ、只食養生にて能く候はんと云ふ。其故を問へば、肉食のこと也と云ふ。我疾も云はさることよ、養生ならば、死人をも喰ふべしと云つて之を用ゆ。二年程かゝりて、ずきと本復す、病愈て藥も用なければ、又潔齋して今日に及べり。その比人に惡しく云はれたると言ふこと、中々のこと也。もはやその時危く死にけれども、耻知らすの正三なればこそ、生命を養ひ立て、今日に存命して、修行も大畧には仕上せたれ。總而切れた心なくしては、物に成せぬと也。その後も再三彼の人出入し、敎を聞かれけるが、次第に得心して、終に出家を止り、專ら奉公を修行に用ひられたり。
新字:又我後何と為たらは、人に何云はれん抔と思ふことなし。右の如く出家して諸方を行脚し、野山に臥し、衣食を詰め、又一頃は、律僧に成て身を責め、三州千鳥山に在て律を行ひたる時分は、麦粥麦飯にて送りける、如是しける間、風雨に身をさらされ麁食に脾胃痩れて病起り、既に大事に及ふ、様々療治を加ふれとも本復せす、余多の医者尽く放す。我も一定死に究めけり。位詰に成り、何とも活きらるべき様なかりければ、近里の、親類共皆走聚る、我弟大略の医者にて有りけるが、此の由を聞き来りて言ふは、薬も何も入らぬ、只食養生にて能く候はんと云ふ。其故を問へば、肉食のこと也と云ふ。我疾も云はさることよ、養生ならば、死人をも喰ふべしと云つて之を用ゆ。二年程かゝりて、ずきと本復す、病愈て薬も用なければ、又潔斎して今日に及べり。その比人に悪しく云はれたると言ふこと、中々のこと也。もはやその時危く死にけれども、耻知らすの正三なればこそ、生命を養ひ立て、今日に存命して、修行も大略には仕上せたれ。総而切れた心なくしては、物に成せぬと也。その後も再三彼の人出入し、教を聞かれけるが、次第に得心して、終に出家を止り、専ら奉公を修行に用ひられたり。
書き下し
又我後何と為たらは、人に何云はれん抔と思ふことなし。右の如く出家して諸方を行脚し、野山に臥し、衣食を詰め、又一頃は、律僧に成て身を責め、三州千鳥山に在て律を行ひたる時分は、麦粥麦飯にて送りける、如是しける間、風雨に身をさらされ麁食に脾胃痩れて病起り、既に大事に及ふ、様々療治を加ふれとも本復せす、余多の医者尽く放す。我も一定死に究めけり。位詰に成り、何とも活きらるべき様なかりければ、近里の、親類共皆走聚る、我弟大略の医者にて有りけるが、此の由を聞き来りて言ふは、薬も何も入らぬ、只食養生にて能く候はんと云ふ。其故を問へば、肉食のこと也と云ふ。我疾も云はさることよ、養生ならば、死人をも喰ふべしと云つて之を用ゆ。二年程かゝりて、ずきと本復す、病愈て薬も用なければ、又潔斎して今日に及べり。その比人に悪しく云はれたると言ふこと、中々のこと也。もはやその時危く死にけれども、耻知らすの正三なればこそ、生命を養ひ立て、今日に存命して、修行も大略には仕上せたれ。総而切れた心なくしては、物に成せぬと也。その後も再三彼の人出入し、教を聞かれけるが、次第に得心して、終に出家を止り、専ら奉公を修行に用ひられたり。
現代語訳
また、自分が後でどうなったら、人に何と言われるだろう、などと思うことはない。右のように出家して諸方を行脚し、野山に臥し、衣食を切り詰め、またひところは律僧となって身を責め、三河の千鳥山で律を行じていたころは、麦粥や麦飯で過ごしていた。このようにしていたので、風雨に身をさらし、粗食で胃腸が衰えて病が起こり、もう大事に及んだ。さまざまに治療を加えたが本復せず、多くの医者がことごとく見放した。私も必ず死ぬと覚悟した。詰めの段になり、どうにも生きられそうになかったので、近在の親類たちがみな走り集まった。私の弟はおおよその医者であったが、このことを聞いて来て言うには、薬も何も要らない、ただ食養生でよいでしょう、と言う。そのわけを尋ねると、肉食のことだ、と言う。私は、早くそう言わないことか、養生のためなら死人でも食おう、と言ってこれを用いた。二年ほどかかって、すっかり本復した。病が癒えて薬も要らなくなったので、また潔斎して今日に至っている。そのころ人に悪く言われたことは、並大抵ではない。もうそのとき危うく死ぬところだったが、恥知らずの正三だからこそ、生命を養い立てて、今日まで存命して、修行もおおよそは仕上げたのである。おおよそ切れた心がなくては、物にはならない、と。その後も再三その人は出入りして教えを聞かれたが、次第に得心して、ついに出家をやめ、もっぱら奉公を修行に用いられた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下我四十余の時、頻りに世間いやになりける間、御穿鑿有らは、無理に世間いやに候間、如是罷成、曲事と思召さば、御成敗あれと罷出て、腹切らんと思定め、不図剃りたり。番頭や御老中に、九太夫こと機違に罷成りたりと御申上頼み奉ると云ひければ、いたはしや、御老中の扨て扨ていなことめされたり、人のことを能くこそ取成物なれ、機の違はぬ人を気違とは取成されてこそと仰せありしが、時を見、御機嫌を窺ひ、夜咄の次に鈴木九太夫不図道心を起し候と申し上けられければ、台徳院様は如何思召されたるか、元より御慈悲にて夫は道心と云ふてば無い、隠居じや迄よと仰せ出されたり。彼の老中悅ひ我を喚ひ何と有らんかと思ひ、加様なる気遣したることなし。然るに如是の忝き御意有らんや。急き継目を申させよと有るに依て、俄に今の九太夫を御礼申させたり。総而切端なくて用に立つへからず、我も初めは如是してすりけるか、今は切行て、修行には結句奉公よしと思ふ也。
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『驢鞍橋』卷下一老兄、予に語て曰く、師この前、三州にて一大事に責められ、黄なるたんを吐き、近処の者驚くほどのといきをつき給ふ。傍よりは直に胸中燃え給ふかと思はれたり。その時分は暁方一睡外眠り給はす、我らに向て、扨ても心安く眠ると哉と、夜毎に仰せ有りしと也。
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『驢鞍橋』卷下師の故傍輩何某殿語て曰く、正三は、若き時より僧好、寺好にて、如何なる僧にも、僧にてさへあれは近付け給ふ。始め権現様に仕へ給ふが、少し奉公の暇あることありければ、家を息男に譲り、下津間多宝院、関本最乗寺抔に引込て、僧に交り玉ふ。又南泉寺大愚和尚の渡にも寮舎を搆へて、久しく居り給ふ。其後又再ひ世に出て、台徳院様に仕へ、便ち関が原陣、同大坂両陣に忠功を作し了て、終に出家し給ふ也。
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『驢鞍橋』卷下我も宝物集にて諸行無常の文に、雪山童子命を代へ給ふ因縁を見て、ひしと諸行無常の意移りたり、又その後六十の年、去る暁寅の刻、仏の三界の衆生を一子の如く思召御心ひしと移る。誠にその時は蟻螻を見ても、生涯を楽み苦む有様、憐に思ひ、何とそ救ふ方便や有らんと、髄に透つて思れたり。その心も三日乗て失す。乍去是は今にも徳になるなり。其よりして少し慈悲心起れり、又性の位も無きに非ず、是れも六十一の歳八月廿七の日、明くれは甘八日の暁、はらりと生死を離れ、慥に本性に契ふ。その当意は只なしなしなしなしと躍て計有度心にてありし也。誠にその時は、頸を切るゝとも、なしなしと毛頭も実なく思はれたり。三十日程如是して過しけるか、我思はいや我に似合はぬこと也。只一機の上にて移りたることなるべしと思ひ、こちより打捨て、本に取て帰り、彼死を胸の中へぼし籠んで、强く修し行せし也。案の如く皆虚ことにて、今に正三と云ふ糞袋は秘蔵也。又その後同しことなから、普化の意道ならば、三町計り行く程か間、慥に移れり。是れは大に徳に成る也。我も普化程には、世世生々に於て修し付けんと思ふ心强ふ起れり。普化は慥に仏境界の人と覚えたり。河陽、木塔、臨済を新婦子老婆小断児と云はれたるは道理なり。普化の眼より見ては、皆無眼子なるべし。
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『驢鞍橋』卷下師一日、去る処に至り物語の次に曰く、人間の一生涯ほど詮なき物なし。如何なる病をか受け、如何なる死をか為し、まだ此の身に如何なる業か有らんす。扨て扨て大義の物哉也と。時に其処の内儀これを聞て、ひしと受けられたり。常々病者なるか、扨ても因果の業体を受け来ること哉。我身また如何なる業か有らんと思ふより、心切に成り、是非是非業を尽くさんと云つて、咒をくり経をよみ、身を扣きつねり、肉のつぐろ死するほどして、念仏経咒を以てひたせめに責められたり。十日ほど如是して、一晩、持仏堂にて罪業を懺悔し居られけれは、ふと死苦に責められ、その機抜けす、真実起る也。又業体を使ひ殺さんと云て人を使はす、我身を使ひ、扨てもいやな御上様やと云て、内の者どもと一つに働き、工夫一偏に勤むる人有り。去る程に頓て病も抜け、女気なく男の様にそ見えたり。師是れを真実の修行者とし給ふ也。
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『驢鞍橋』卷下去る夜、小用に出て給ふ次で、身を扣て曰く、咳、むさい糞袋哉。大小用の時は、一入髄に徹して不浄の体哉と、いやに思はるゝ也。扨て扨て詮も無き物哉と也。常住坐臥に付て、何の詮もなき物哉詮もなき物哉と也。又時々あゝ大義じやよ大義じやよと大息をつき給ひ、睡眠の中にも吐息有りし也。又僧俗、毎夜床を取廻して坐するに、何として何としてと時々警策有りし也。