驢鞍橋 / 卷下
同十九日、御幡下衆何某殿子息來り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の爲めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
新字:同十九日、御幡下衆何某殿子息来り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の為めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
書き下し
同十九日、御幡下衆何某殿子息来り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の為めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
現代語訳
同じ月の十九日、旗本衆の某殿の子息が来て、剃髪を願った。師は聞いて言われた。私はもとから、家職を捨てて法を求めることが嫌いである。とりわけ侍が隠遁するなどは、しなびた心である。修行のためには、奉公にまさるものはない。出家すれば、かえって地獄を作るだろう。奉公がすなわち修行である、と再三示された。
解説
下巻最長の条の始まりである。旗本の子息が出家したいと願い出ると、正三は、家職を捨てて出家することは嫌いだ、侍の出家などしなびた心だ、修行には奉公に勝るものはない、と繰り返し説く。自らも侍から出家した正三が、若者の出家を強く止めているのが興味深い。今の仕事から逃げるように別の道を選ぶより、今の職務の中で修行せよ、という職業即仏行の考えを、切実な相談の場で語っている。
この章句が説くこと
奉公出家職業即仏行旗本逃避務め
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
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『驢鞍橋』卷下彼人思ひ入たる道理計りを云つて聞きうけす、無理に剃髪を乞ふ。師曰く、夫れならば力及はす、其方次第也。我処にては、総して出家させず、何方にても剃りめされんず迄よ。夫れはともあれ、後にいきあたりめさるゝな。今云つて聞かせ申すぞ。御公儀より御穿鑿あらん時、別に云分有るへからす。某世間いやに御座有るに仍て、此の体に罷り成る也。曲事に思召さば、御成敗有るべしと云つて罷出て、腹切らんと思定めめさればすらるべし、是れ一つ。又出家しても食はでもならず、着でもならず、草履鼻紙も使はでならず、何としても一年に金三両ほどは入らんずと思ひめされよ。不観にひよつとすつて後、餓鬼に成りめさるゝな。覚悟有らばすりめされよ。寺に入り大事の施物を食ふも非義也。又親類衆纔かの知行を以て、世間を間に合はせて行かんとするを貪らんと思ふも比興也。夫れよりは此の身を主君に抛て、奉公して食ひたるかよき也。総而片ふしんに思にならぬ物也。我と自分過きするやうにする物也。是れ一つ。右の旨覚らば、御辺次第也。後に行当りめさるゝな。
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『驢鞍橋』卷下彼人曰く、法の為めに身を捨る上は、何事にかいきあたるべし。師曰く、めたと身を捨るを仏法とは云はす、夫れが成仏ならば、人を頼で頭を切りめされんや。又堀川にも飛込み死するを成仏と云はんや。身を捨つと云ふは、執着を離るゝこと也。執着の機だに離れば、身は有つても碍なし。然ればとて身をうまする事にもあらず。又ゆゑなく身を使ひくつめ、病者に成つてもならぬこと也。その上おつきるを、身を捨つと思はるゝか。おつきるは、却で身の為めに楽を求むると云ふ物也。後世を願ふも、我身の為めに願はずや。身を捨るならば、何で今の奉公を勤めさる、いやなことを作すこそ、身を捨るなれ。殊に修行と云ふは、强き心を以て修することなる間、出家よりは侍よき也。その故は先つ□主を持て機に油断し、常に大小をさし働かし、すわと云はばと云ふ機自ら備はる也。此の機にてさへ用ゐられす、況や出家に成り、機たらりとなつて、何の用に立たんや。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、道を知らぬは是非も無き事也。今時侍の子どもが出家して、死人の皮を剝ぎ、世を渡る者多し。究めたる非興也。菩提の為めには出家然るへし。身過の為めには非義也。百石も望むこそ苦なれ、身一つ過ぎる分は安き事也。必ず志なく無道心にして出家し、人の信施を受くへからす。一向足軽にてもして過ぎたるか能き也。世間を以て地獄に入りたるは、仏法を以て救ふ頼みあり、仏法を以て地獄に入りたる者、なにを以て救ふへきや。永劫浮ふへき便り無しと也。
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『驢鞍橋』卷下縦ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見処迄も打捨て、本に帰りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の変も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か気違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加様に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚軽ても為て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
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『驢鞍橋』卷下一日、僧問ふ、師常に修行の為めには侍好し、出家却て悪しと云つて、人の剃るを嫌ひ給ふが、何として自らは剃り給ふぞと云ふ者有り、如何か答へ申すべきや。師聞て曰く、何れも云て看よ。一僧曰く、仏法を起すには、俗よりも出家徳大なる故なるべし。師曰く、其儀に非す。正三は只因果にて剃りたり。定て正三は出家に成る因果こう有りつらん。無体に剃度してそりたる也。因に曰く、然るに此の因果の理を弁へず仏法を聞かば、皆出家に成ると云ふ。又病者と成り、機違と成ると云て、法に咎を付る者有り、究めたる悪見也。是れ法の咎に非ず、皆前世の因果也。その故は法を聞かざる者にて機違有り、病者有り、盲目と成る者有り、是は何の咎と云はんと也。