驢鞍橋 / 卷下
所住の三院は師初め三州石平山に住す。彼の地は、舍弟鈴木三郞九郞君思を謝せんと欲して伽藍を建立して、而して師に與ふ。故に恩眞寺と號す。則ち大將軍御三代の御位牌、本尊左右に安置し奉る。並に師の眞像、この地に殘し給ふ也。末後、江城に至り給ふに及て、森川の何某殿四屋の側に一宇を立て、是れに居せしむ。師便ち彼の嚴父の法名を額と作して重俊院と號す。次年、江州熊谷の信士、天德院の傍に草庵を結んて之を献す。師便ち士の前日受くる處の法名を號と作して了心庵と稱し給ふ也。○葬禮之次第、□
新字:所住の三院は師初め三州石平山に住す。彼の地は、舎弟鈴木三郎九郎君思を謝せんと欲して伽藍を建立して、而して師に与ふ。故に恩真寺と号す。則ち大将軍御三代の御位牌、本尊左右に安置し奉る。並に師の真像、この地に残し給ふ也。末後、江城に至り給ふに及て、森川の何某殿四屋の側に一宇を立て、是れに居せしむ。師便ち彼の厳父の法名を額と作して重俊院と号す。次年、江州熊谷の信士、天徳院の傍に草庵を結んて之を献す。師便ち士の前日受くる処の法名を号と作して了心庵と称し給ふ也。○葬礼之次第、□
書き下し
所住の三院は師初め三州石平山に住す。彼の地は、舎弟鈴木三郎九郎君思を謝せんと欲して伽藍を建立して、而して師に与ふ。故に恩真寺と号す。則ち大将軍御三代の御位牌、本尊左右に安置し奉る。並に師の真像、この地に残し給ふ也。末後、江城に至り給ふに及て、森川の何某殿四屋の側に一宇を立て、是れに居せしむ。師便ち彼の厳父の法名を額と作して重俊院と号す。次年、江州熊谷の信士、天徳院の傍に草庵を結んて之を献す。師便ち士の前日受くる処の法名を号と作して了心庵と称し給ふ也。○葬礼之次第、□
現代語訳
住んだ三院は、師が初め三河の石平山に住まわれた。その地は、弟の鈴木三郎九郎が主君の恩に報いようとして伽藍を建立し、師に与えた。だから恩真寺と号する。そこに大将軍御三代のご位牌を、本尊の左右に安置し申し上げている。また師の肖像もこの地に残された。晩年、江戸城下に来られると、森川の某殿が四谷の傍らに一宇を建て、ここに住まわせた。師はその厳父の法名を額にして、重俊院と号した。翌年、近江の熊谷の信士が、天徳院の傍らに草庵を結んでこれを献じた。師はその信士が以前受けた法名を号にして、了心庵と称されたのである。葬礼の次第、□(役配の表は底本で読めない)。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷下一日少病と告く。因に男女の病を問ふ事を制して給ふといへとも、夜昼競ひ来て喧し。時に師衆に対して曰く、此了心庵は、天徳院に帰すべし。重俊院は、半弥殿次第也。不三は上方へ還られんず迄よ。別に云ふことなしと云つて、神田に移り給ふ也。神田は、鈴木町舎弟兵左衛門尉宿所也。不三は衆中の老徳也。河州稲田に住院あり。
-
『驢鞍橋』卷下師の故傍輩何某殿語て曰く、正三は、若き時より僧好、寺好にて、如何なる僧にも、僧にてさへあれは近付け給ふ。始め権現様に仕へ給ふが、少し奉公の暇あることありければ、家を息男に譲り、下津間多宝院、関本最乗寺抔に引込て、僧に交り玉ふ。又南泉寺大愚和尚の渡にも寮舎を搆へて、久しく居り給ふ。其後又再ひ世に出て、台徳院様に仕へ、便ち関が原陣、同大坂両陣に忠功を作し了て、終に出家し給ふ也。
-
『驢鞍橋』卷下この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
-
『驢鞍橋』卷上正三老人行脚の後、三州石平山に居して生を利すること年久し。末後に慶安元年戊子の夏、関東江城に到て諸人を接引す。予胡乱に其語を認めて阿爺の下頷と成す者也。
-
『驢鞍橋』卷下一老兄語て曰く、石平山勤行の次第は、早朝、舎利礼を以て同拝に三拝、並に発願文、次に諸諷経有り、其後金剛経二巻、施餓鬼七遍誦して、万霊に廻向有り、日中初夜ともに如是。但し二時は諸諷経無き也。同しく亡者忌日吊の次第、初夜、七返施餓鬼。茶湯の後、金剛経或は二巻或は三巻。次きに坐禅有り、師自ら警策を打ち給ふ。明朝茶湯の後、金剛経六巻、半斎より日中の間、諸僧と共に施餓鬼、或は七仏の偈を書し、飯上に狭んて、七遍施餓鬼有りて決し給ふ也。日数を重ねて吊ひ給ふも、日日如是と也。師この頃も暇有る毎に、施餓鬼七仏の偈を書して万霊を吊ひ、老病を顧みす、礼拝恭敬して仏事を正しく作し給ふ也。
-
『驢鞍橋』卷下正三は俗に在りし時の名乗也。出家の後、亦法名とす。本国は紀州熊野、生国は三州姓は穂積、鈴木氏の長子なり。先祖三州に至るに及んて、松平の幕下に属して弓箭の功を致すこと、師に至る迄数代也御大将一天を掌にし給ひて、武官隙あるに及んて遁世す。師述る所の書、万民徳用、麓草分、盲安杖、二人比丘尼、念仏草紙、破きりしたん、因果物語等也。以上の七部は、三宝の光を以て国土を照し、普く群生を度せんと欲す、師大願の至要也。