驢鞍橋 / 卷下
一日少病と告く。因に男女の病を問ふ事を制して給ふといへとも、夜晝競ひ來て喧し。時に師衆に對して曰く、此了心庵は、天德院に歸すべし。重俊院は、半彌殿次第也。不三は上方へ還られんず迄よ。別に云ふことなしと云つて、神田に移り給ふ也。神田は、鈴木町舍弟兵左衛門尉宿所也。不三は衆中の老德也。河州稻田に住院あり。
新字:一日少病と告く。因に男女の病を問ふ事を制して給ふといへとも、夜昼競ひ来て喧し。時に師衆に対して曰く、此了心庵は、天徳院に帰すべし。重俊院は、半弥殿次第也。不三は上方へ還られんず迄よ。別に云ふことなしと云つて、神田に移り給ふ也。神田は、鈴木町舎弟兵左衛門尉宿所也。不三は衆中の老徳也。河州稲田に住院あり。
書き下し
一日少病と告く。因に男女の病を問ふ事を制して給ふといへとも、夜昼競ひ来て喧し。時に師衆に対して曰く、此了心庵は、天徳院に帰すべし。重俊院は、半弥殿次第也。不三は上方へ還られんず迄よ。別に云ふことなしと云つて、神田に移り給ふ也。神田は、鈴木町舎弟兵左衛門尉宿所也。不三は衆中の老徳也。河州稲田に住院あり。
現代語訳
ある日、少し病気だと告げられた。そこで男女の病気見舞いを禁じられたが、夜昼競って来て騒がしかった。そのとき師は衆に対して言われた。この了心庵は天徳院に帰すべし。重俊院は半弥殿次第である。不三は上方へ帰られるまでよ。別に言うことはない、と言って、神田に移られた。神田は、鈴木町の舎弟兵左衛門尉の宿所である。不三は衆の中の老徳である。河内の国の稲田に住院がある。
解説
病を得た正三は、見舞いを断っても人々が押し寄せるので、自分の庵の後始末を簡潔に言い渡し、別に言うことはない、と言って、弟の住まいのある神田に移った。庵は天徳院に返し、別の寺は施主に任せ、高弟の不三は上方に帰ればよい、と。死を前にして、財産や組織の後継を大げさにせず、淡々と整理する。執着を離れた人の、見事な身の処し方である。
この章句が説くこと
身辺整理去り際後始末手放す最期淡々
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下未の二月日、四屋にて正庵大病を受くるを、師見舞有て、便ち牛込へ遷り、諸僧に語て曰く、扨て扨て大事の者哉。我能く是れを知る。其方達も腹立たる機のやうにして諸念の面を出さぬほどの位有りや。左無き人には、何ともせんずやうなしと也。
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『驢鞍橋』卷下師神田に至り給ふに及んで、彼の宿所の傍に二間四方の小坐敷あるを見て、好き死所見付けたり、これにて死せんずよと云て彼に入り給ふ。意斎、正智のみ常に左右に侍す。時に一僧、師に啓して曰く、医者衆御脉悪しと申す也、御気色如何候や。師笑て曰く、正三は三十年以前に死して置いたりと也。
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『驢鞍橋』卷下師遷化の後、不三老、門人に謂て曰く、此間人病を問へとも、之に取合はず、なにと仏法に替る事なしやなしやと計り尋ね給ふ。誠に遷化の日迄、此事のみ也。一生が間、あれほとも全体仏法を苦にし給ふものか、各志を守て師の念願を虚しう給ふべからすと□□也。
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『驢鞍橋』卷下去る夜、小用に出て給ふ次で、身を扣て曰く、咳、むさい糞袋哉。大小用の時は、一入髄に徹して不浄の体哉と、いやに思はるゝ也。扨て扨て詮も無き物哉と也。常住坐臥に付て、何の詮もなき物哉詮もなき物哉と也。又時々あゝ大義じやよ大義じやよと大息をつき給ひ、睡眠の中にも吐息有りし也。又僧俗、毎夜床を取廻して坐するに、何として何としてと時々警策有りし也。
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『驢鞍橋』卷下己の五月廿八日の暁曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな体哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病気なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても强者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
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『驢鞍橋』卷上一日聚会の次で、一僧去る病体の和尚に向つて云く、悪病抔出でざる様になさるべし。若し悪病出でば、大に人の為めに怨と成るべし。師聞て曰く、扨も詮なき事を云ふ人かな、如何なる病をか受け、如何なる死をかせん。我人知られてこそ因果次第也。従今分別するとも争かあたらんや。唯今修する処にこそ詮議はあれ、後はひつてひり破つても、死にめされよ。只死しても奇麗にもをりないぞ、野に成りとも山に成りとも只捨てめされよと也。