驢鞍橋 / 卷下
師神田に至り給ふに及んで、彼の宿所の傍に二間四方の小坐敷あるを見て、好き死所見付けたり、これにて死せんずよと云て彼に入り給ふ。意齋、正智のみ常に左右に侍す。時に一僧、師に啓して曰く、醫者衆御脉惡しと申す也、御氣色如何候や。師笑て曰く、正三は三十年以前に死して置いたりと也。
新字:師神田に至り給ふに及んで、彼の宿所の傍に二間四方の小坐敷あるを見て、好き死所見付けたり、これにて死せんずよと云て彼に入り給ふ。意斎、正智のみ常に左右に侍す。時に一僧、師に啓して曰く、医者衆御脉悪しと申す也、御気色如何候や。師笑て曰く、正三は三十年以前に死して置いたりと也。
書き下し
師神田に至り給ふに及んで、彼の宿所の傍に二間四方の小坐敷あるを見て、好き死所見付けたり、これにて死せんずよと云て彼に入り給ふ。意斎、正智のみ常に左右に侍す。時に一僧、師に啓して曰く、医者衆御脉悪しと申す也、御気色如何候や。師笑て曰く、正三は三十年以前に死して置いたりと也。
現代語訳
師は神田に着かれると、その宿所の傍らに二間四方の小座敷があるのを見て、良い死に場所を見つけた、ここで死のうよ、と言ってそこに入られた。意斎と正智だけが、いつも左右に仕えた。そのとき一人の僧が、師に申し上げて言った。医者たちが、ご脈が悪いと申しております。ご気分はいかがでしょうか。師は笑って言われた。正三は三十年前に死んでおいたのだ、と。
解説
弟の家の傍らの小さな座敷を見て、正三は、良い死に場所を見つけた、ここで死のう、と言って入った。医者が脈が悪いと言っていると心配する弟子に、笑って、自分は三十年前に死んでおいた、と答える。四十二歳で出家して以来、死を覚悟して生きてきた正三にとって、肉体の死はもはや恐れるものではなかった。生涯をかけて説いた死の覚悟を、最期に笑って実証した、驢鞍橋の中でも最も印象深い一言である。
この章句が説くこと
最期死に場所死の覚悟笑い実証晩年
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下師始め室を閉つといへとも、末後両三日に至て諸人の見舞を致すことを許し給ふ。時に一僧なほなほ法要を示し給へと云ふ。師はつたと睨んて曰く、何と云ふ□、我三十年云ふことをえうけずして、左様のことを云ふか、正三は死ぬと也。その後法要を問ふ者なし。時に明暦元年乙未六月二十五日申の刻、安然として遷化し給ふ也。
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『驢鞍橋』卷下去る暁、左右に向て曰く、扨て扨て実は强物哉。何れも正三かまだいきて居ると思ひ、世にある物じやと思つて、我病に貪著し、之に機を取られて居るさうなと也。又曰く、死をはつしと守るべし、我常に是れ一つを云ふ也。正三は何年生きても、死より別に云ふことなしと也。
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『驢鞍橋』卷下去る夜、小用に出て給ふ次で、身を扣て曰く、咳、むさい糞袋哉。大小用の時は、一入髄に徹して不浄の体哉と、いやに思はるゝ也。扨て扨て詮も無き物哉と也。常住坐臥に付て、何の詮もなき物哉詮もなき物哉と也。又時々あゝ大義じやよ大義じやよと大息をつき給ひ、睡眠の中にも吐息有りし也。又僧俗、毎夜床を取廻して坐するに、何として何としてと時々警策有りし也。
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『驢鞍橋』卷下己の五月廿八日の暁曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな体哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病気なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても强者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
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『驢鞍橋』卷下師遷化の後、不三老、門人に謂て曰く、此間人病を問へとも、之に取合はず、なにと仏法に替る事なしやなしやと計り尋ね給ふ。誠に遷化の日迄、此事のみ也。一生が間、あれほとも全体仏法を苦にし給ふものか、各志を守て師の念願を虚しう給ふべからすと□□也。
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『驢鞍橋』卷下一日少病と告く。因に男女の病を問ふ事を制して給ふといへとも、夜昼競ひ来て喧し。時に師衆に対して曰く、此了心庵は、天徳院に帰すべし。重俊院は、半弥殿次第也。不三は上方へ還られんず迄よ。別に云ふことなしと云つて、神田に移り給ふ也。神田は、鈴木町舎弟兵左衛門尉宿所也。不三は衆中の老徳也。河州稲田に住院あり。