驢鞍橋 / 卷下
己の五月廿八日の曉曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな躰哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病氣なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても强者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
新字:己の五月廿八日の暁曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな体哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病気なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても強者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
書き下し
己の五月廿八日の暁曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな体哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病気なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても强者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
現代語訳
巳の年五月二十八日の明け方、言われた。御坊主たちも、きっと弓を張ったように、張り合いの心が出てくるか。さてまた、痛い、痒いと、一切につけて嫌な体だな、ときっと境界と張り合っている心があるか、と。ある者が、某は病気で、必ず死ぬと覚悟を決めております、と語った。師は聞いて言われた。なんとも強い者だ。これは尊い人である。老病が極まっても、心はなかなか死に切れないものだ、と。
解説
弓を張ったような張り合いの心、痛い痒いと不自由な体に負けまいと向き合う心があるか、と正三は弟子に問う。そこへ、ある病人が死を覚悟していると聞き、それは尊い人だ、老いや病が極まっても、心はなかなか死を受け入れられないものだ、と言う。死期を悟ってなお覚悟を決められる人への、晩年の正三の深い敬意である。自分の体の衰えと張り合う心と、死を受け入れる覚悟の両方が語られている。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
張り合い老病覚悟死敬意晩年
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