驢鞍橋 / 卷下
師遷化の後、不三老、門人に謂て曰く、此間人病を問へとも、之に取合はず、なにと佛法に替る事なしやなしやと計り尋ね給ふ。誠に遷化の日迄、此事のみ也。一生が間、あれほとも全體佛法を苦にし給ふものか、各志を守て師の念願を虚しう給ふべからすと□□也。
新字:師遷化の後、不三老、門人に謂て曰く、此間人病を問へとも、之に取合はず、なにと仏法に替る事なしやなしやと計り尋ね給ふ。誠に遷化の日迄、此事のみ也。一生が間、あれほとも全体仏法を苦にし給ふものか、各志を守て師の念願を虚しう給ふべからすと□□也。
書き下し
師遷化の後、不三老、門人に謂て曰く、此間人病を問へとも、之に取合はず、なにと仏法に替る事なしやなしやと計り尋ね給ふ。誠に遷化の日迄、此事のみ也。一生が間、あれほとも全体仏法を苦にし給ふものか、各志を守て師の念願を虚しう給ふべからすと□□也。
現代語訳
師が遷化された後、不三老が門人に言われた。この間、人々が病を尋ねても、それには取り合わず、何か仏法に変わったことはないか、ないか、とばかり尋ねておられた。まことに遷化の日まで、このことだけであった。一生の間、あれほどまで全身で仏法を苦にしておられたのか。それぞれ志を守って、師の念願を虚しくしてはならない、と□□。
解説
正三の死後、高弟の不三が弟子たちに語る。師は病を問われても取り合わず、仏法に何か変化はないか、とばかり尋ね続けた、死ぬ日までそれだけだった、と。自分の病より仏法の行く末を案じ続けた師の姿に、生涯あれほど仏法を苦にしていたのか、と不三は感じ入る。そして、師の願いを無駄にするな、と門人を励ます。師の死を悲しむだけでなく、その志を受け継ぐ決意へと変えていく場面である。
この章句が説くこと
遺志不三継承仏法弟子決意
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