驢鞍橋 / 卷下
一日、殊勝に落ちたる道心者來るに示して曰く、佛道と云ふは、樊噲、張良を欺く程の心を用ゆること也、なにと合點めされたかと也。
新字:一日、殊勝に落ちたる道心者来るに示して曰く、仏道と云ふは、樊噲、張良を欺く程の心を用ゆること也、なにと合点めされたかと也。
書き下し
一日、殊勝に落ちたる道心者来るに示して曰く、仏道と云ふは、樊噲、張良を欺く程の心を用ゆること也、なにと合点めされたかと也。
現代語訳
ある日、殊勝に沈み込んだ道心者が来たので、示して言われた。仏道というのは、樊噲や張良をもしのぐほどの心を用いることである。どう納得されたか、と。
解説
しおらしく神妙に沈み込んだ修行者に、正三は、仏道とは、漢の高祖を支えた豪傑樊噲や軍師張良をもしのぐほどの強い心を用いることだ、と言う。おとなしく殊勝にしていることが修行ではない。勇猛さと知略を兼ね備えた英雄のような心の強さこそが求められる、と。控えめで大人しい態度を美徳と思い込んでいる人に、内に燃えるような強さを持て、と促す一言である。
この章句が説くこと
樊噲張良心の強さ殊勝勇猛仏道
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上師一日示して曰く、近年仏法に勇猛堅固の大威勢有ると云ふことを唱へ失へり。只柔和に成り、殊勝に成り、無欲に成り、人能くはなれども、怨霊と成る様の機を修し出す人無し。何れも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊と成るべしと也。
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『驢鞍橋』卷下同十八日、去る俗士来り、某今迄終に仏法承らす、油断者也と云つて法要を問ふ。師曰く、何くにても聞きめされぬか仕合也。若し聞きめされたらば、疾く悟て隙を明けめさるべし。総而聞きて合点して置くことに非す。只修し行して、少し宛も心の垢を抜くこと也。暗心も明く成り、弱心も强く成る様に修すること、先つ大すべを心得めされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来り、病者故に仏法を思ふ事成らずと云ふ。師聞て曰く、扨もよき病哉、羨敷病也。其れならば定めて世間の事も病機故に思はれまじ、是れに增したる事なし。身をも娑婆をもぐつと忘れ果てらるべし。総じて仏道と云ふは一切を思はぬ事也。
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『驢鞍橋』卷上一日或武士に示して曰く、仏法なくして武勇つかはるへからす。血気の勇は何程强しと云ふとも、とこぞに臆病なる処有るへし。我も高き坩の上に立て下を見れは、足振へて臆病出づる也。仏法修行なくんば、大丈夫の漢と成るべからすと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。