驢鞍橋 / 卷上
師一日示して曰く、近年佛法に勇猛堅固の大威勢有ると云ふことを唱へ失へり。只柔和に成り、殊勝に成り、無欲に成り、人能くはなれども、怨靈と成る樣の機を修し出す人無し。何れも勇猛心を修し出し、佛法の怨靈と成るべしと也。
新字:師一日示して曰く、近年仏法に勇猛堅固の大威勢有ると云ふことを唱へ失へり。只柔和に成り、殊勝に成り、無欲に成り、人能くはなれども、怨霊と成る様の機を修し出す人無し。何れも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊と成るべしと也。
書き下し
師一日示して曰く、近年仏法に勇猛堅固の大威勢有ると云ふことを唱へ失へり。只柔和に成り、殊勝に成り、無欲に成り、人能くはなれども、怨霊と成る様の機を修し出す人無し。何れも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊と成るべしと也。
現代語訳
師がある日示して言われた。近年の仏法では、勇猛で堅固な大いなる威勢があるということを唱えなくなってしまった。ただ柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人柄は良くなるけれども、怨霊となるほどの気迫を修め出す人がいない。誰もが勇猛心を修め出して、仏法の怨霊となるべきである、と。
解説
語録の最初に置かれたのは、柔和で行儀のよい仏教への批判である。正三が求めたのは、穏やかな人柄ではなく、怨霊になるほどの気迫だった。武士出身の正三らしい激しい言葉だが、単なる荒々しさの勧めではない。煩悩や怠けに打ち勝つには、それに負けない強い心の張りが要る、という主張である。優しく人当たりがよいだけで、肝心のことに迫力を欠いていないかを、組織で働く人にも問いかけてくる一条だ。
この章句が説くこと
勇猛心気迫仏法柔和本気鈴木正三
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只栄耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上然るに今時仏法廃れ果て、すべ悪く成りて、活きた機を用ゆる者なし。皆死漢計り也。仏道には活漢とて活きた機を用ゆること是れを知らす、殊勝になん柔和になり、沈入りて仏法と思へり。或は悟りたる抔とさもなきことを鼻に上げ狂ひありく者多し。只我は殊勝けなことをも、悟りけなことをも知らす、十二時中浮心を以て万事に勝つ事計り用ゆる也。何れも二王不動の堅固の機を受修し行して、悪業煩悩を滅すべしと自ら眼をすゑ、拳を握り歯ぎしりして曰く、きつと張懸けて守る時、何にても面を出す者なし。始終此勇猛の機一つを以て、修行は成就する也。別に入ること無し。何たる行業もぬけがらに成りてせば、用に立つべからず。强く眼を著けて禅定の機を修し出すべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、結句俗方や女人には、勇猛の機移りたる人有りとも、出家に此の機移りたる人無し。是非なきこと也。何としても、出家に移らねば、衆生の為にならず、又末世に残されす、御坊主達勢を出してくれめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日或武士に示して曰く、仏法なくして武勇つかはるへからす。血気の勇は何程强しと云ふとも、とこぞに臆病なる処有るへし。我も高き坩の上に立て下を見れは、足振へて臆病出づる也。仏法修行なくんば、大丈夫の漢と成るべからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。