驢鞍橋 / 卷下
一日、去る處にて示して曰く、佛法と云ふは、萬事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禪を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
新字:一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
書き下し
一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
現代語訳
ある日、ある所で示して言われた。仏法というのは、万事に使うことである。とりわけ武士は鬨の声の坐禅を用いなさい、と言って、自ら鬨の声を上げられた。その座に不三がいて、ひしとこの気迫を受け止めた。師は後にその意を聞いて、これを肯われた。
解説
仏法とはあらゆることに使うものだ、と言い、正三は、とくに武士は鬨の声の坐禅を用いよ、と自ら鬨の声を上げてみせた。その場にいた不三は、この気迫をしっかり受け止め、正三はその理解を認めた。静かに座る坐禅ではなく、戦場で声を上げて敵に向かう瞬間の気迫を、そのまま心の修行にする。職業ごとの身体感覚を修行に生かす正三の方法が、ひと声で鮮やかに示された場面である。
この章句が説くこと
鬨の声武士坐禅気迫不三職業即仏行
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日去る侍に示して曰く、始めより忙敷中にて坐禅を仕習ふたるが好き也。殊に侍は鯨波の中に用ふる坐禅を仕習はで不叶、鉄鉋をばたばたと打立て、互に鑓先を揃へて、わつわつと云ふて乱れ逢ふ中にて、急度用ひて爰で使ふ事也。なにと静なる処を好む坐禅が、加様の処にて使はれんや。総して侍はなにと好き仏法なりと云ふとも、ときの声の内にて用に立たぬ事ならは、捨たがよき也。然る間常住二王心を守習ふ外なし。扨初心の者二王心の外にて、万事の上に使ふ事成るへからず。
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『驢鞍橋』卷上一日若き侍両人来り、修行の用心を問ふ。師彼に問て曰く、其方達は何役をめさるゝや、時に一人広間番を仕ると云ふ。師示して曰、狼藉者に於ては縦ひ樊噲張良也とも、八幡通すましと急度ねぢまわして番を作すべし。是れ則ち坐禅也。別に用心有るべからず。亦一人は供番也と云ふ。師示して曰、何者にてもあれうろたへ者、又は逆心の者出来らば、忽ち無手と引組んて指違へんと、急度死を窮め、眼をすゑて供を作すべし。是れ則ち坐禅也。機を抜かして供を成さば、用に立つべからずと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る侍来て念仏の申し様を問ふ。師示して曰く、武士の役義なる間、敵のそなへを造り立て、其中に、一筋に南無阿弥陀仏とは飛籠み、南無阿弥陀仏とは飛籠み、自由自在に入るゝほと、飛籠念仏を申さるべし。
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『驢鞍橋』卷上又曰、諸芸皆禅定の機を以て為す事也。就中兵法抔はぬけた心にて使はるべからずと、自らきつと太刀を構へたる模様を為して曰、皆是れ禅定の機也、然れとも兵法者は使ふ時計り禅定にて、太刀を置くと早抜ける也。然るに仏道修行の者は、常住抜かさず此機を用ふる也。此故に一切に負ける事なし。次第に煆錬じ熟するに随つて、謡や拍子の様なる事にも合ふて、万事に相応して万徳円満也。如是用ふるを仏法と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、我平生果し眼に成り、八幡と云ふてねぢまはし、じりじりと懸かる機に成りて居る也。我法はげにと出家には移り難かるべし。只武士に移るべき也。其故は我少しも殊勝気なし、只常住ねぢまはして居る機一つを用ゐ得る計り也。我法はらつは仏法と也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。