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驢鞍橋 / 卷上

一日示して曰く、我平生果し眼に成り、八幡と云ふてねぢまはし、じりじりと懸かる機に成りて居る也。我法はげにと出家には移り難かるべし。只武士に移るべき也。其故は我少しも殊勝氣なし、只常住ねぢまはして居る機一つを用ゐ得る計り也。我法はらつは佛法と也。

新字:一日示して曰く、我平生果し眼に成り、八幡と云ふてねぢまはし、じりじりと懸かる機に成りて居る也。我法はげにと出家には移り難かるべし。只武士に移るべき也。其故は我少しも殊勝気なし、只常住ねぢまはして居る機一つを用ゐ得る計り也。我法はらつは仏法と也。

書き下し

一日示して曰く、我平生果し眼に成り、八幡と云ふてねぢまはし、じりじりと懸かる機に成りて居る也。我法はげにと出家には移り難かるべし。只武士に移るべき也。其故は我少しも殊勝気なし、只常住ねぢまはして居る機一つを用ゐ得る計り也。我法はらつは仏法と也。

現代語訳

ある日示して言われた。私は日頃から果たし眼になり、八幡と言ってねじ回し、じりじりと迫っていく気迫になっている。私の法は、なるほど出家には移りにくいだろう。ただ武士に移るはずである。そのわけは、私には少しも殊勝げなところがなく、ただ常にねじ回している気迫一つを用いることができるばかりだからだ。私の法はらっぱ(雑兵)仏法である、と。

解説

正三は自分の法を、らっぱ仏法、つまり雑兵の仏法だと呼ぶ。殊勝げな雰囲気は少しもなく、戦場で八幡と唱えて敵にじりじり迫る足軽のような気迫だけを用いる、と。だからこそ出家より武士に伝わりやすい、とも言う。上品で洗練された教えではなく、泥臭く実践的な教えであることを、誇りをもって語っている。現場で汗を流す人々にこそ届く、泥臭い教えの価値を、自ら宣言した条である。

この章句が説くこと

らっぱ仏法武士泥臭さ気迫実践果し眼

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