驢鞍橋 / 卷下
一日、去る侍來て念佛の申し樣を問ふ。師示して曰く、武士の役義なる間、敵のそなへを造り立て、其中に、一筋に南無阿彌陀佛とは飛籠み、南無阿彌陀佛とは飛籠み、自由自在に入るゝほと、飛籠念佛を申さるべし。
新字:一日、去る侍来て念仏の申し様を問ふ。師示して曰く、武士の役義なる間、敵のそなへを造り立て、其中に、一筋に南無阿弥陀仏とは飛籠み、南無阿弥陀仏とは飛籠み、自由自在に入るゝほと、飛籠念仏を申さるべし。
書き下し
一日、去る侍来て念仏の申し様を問ふ。師示して曰く、武士の役義なる間、敵のそなへを造り立て、其中に、一筋に南無阿弥陀仏とは飛籠み、南無阿弥陀仏とは飛籠み、自由自在に入るゝほと、飛籠念仏を申さるべし。
現代語訳
ある日、ある侍が来て、念仏の申し方を尋ねた。師は示して言われた。武士の役目なのだから、敵の備えを思い描き、その中に一筋に、南無阿弥陀仏と飛び込み、南無阿弥陀仏と飛び込み、自由自在に入り込むほどの、飛び込み念仏を申されるがよい。
解説
念仏の唱え方を尋ねた侍に、正三は、武士らしく、敵陣を思い描き、その中へ南無阿弥陀仏と一筋に飛び込んでいく念仏を唱えよ、と教える。静かに座って唱える念仏ではなく、戦場に斬り込む気迫そのものを念仏にする。聞き手の職業や日頃の心構えに合わせて、修行の形を変える正三の方法がよく表れている。自分の仕事の緊張感を、そのまま心を鍛える場に転じよ、という教えでもある。
この章句が説くこと
念仏武士飛び込み気迫職業即仏行方便
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下午の二月十八日、賢崇寺にて、去る俗士念仏の申し様を問ふ。師眼を見すゑ、拳を握り、きつと胸を張出して曰く、なまだなまだなまだと申さるべし。常住如是用ゐずんば、用に立つべからすと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、今時諸方に安く仏法を授くる人多し、我は授くへき物なし。我処に来ての得所には、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を知らるへし。是れを授け申すぞ。然れとも措かるゝ事に非す、一大事なれば、世々生々に於て種を失はず、終に仏果菩提を成せんと思ふ心は、我も强う持つ也。其方抔も只念仏申しに成りめさるべし。法然抔も念仏の外は菩提の為めに成る事を知らすと云ふて、一枚起請二枚起請三枚起請迄書置かれたり。我も此行を能く思ふ、先づ此行には病が著かぬ也。大鐘を胸の中にぐわんぐわんと扣き込んで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と力を出して申すべし。悪業少しも面を出すべからず。如是平生用ひて念を滅す事也。
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『驢鞍橋』卷上師常に念仏を唱ひ給ふ。一日去る長老曰く、昨夜夢に師の念仏を申し給ふを無用と異見申したると見る也。師聞て曰く、夢にまで見玉ふは、我念仏を申すを悪く思召と見えたり。夫れは御意得悪しき故也、我南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、放下着放下着と申す也。但し是れ悪しきや。放下着放下着と云ふより南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、結句耳に碍るまじきと思ふがいな事と也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る遁世者来て、修行の用心を問ふ。師示して曰く、万事を打置て唯死に習はるべし。常に死に習つて、死の隙を明け、誠に死する時、驚かぬやうにすべし。□て死に習はるべし。彼者云、盲安杖を常に披見仕る、是等を見る事も悪しや。師曰、見て覚ゆる事は皆怨也。只念仏を以て死を軽くすべし。
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『驢鞍橋』卷上一日濃州より来る自本と云ふ遁世者、師を辞するに示して曰く、是れは我か其方への遺言也。必ず我に無き後世を人に教へめさるゝな。只人には我信実を起して見するが好し、総して化廻れば、先づ今生も住みにくき物也、只一心不乱に念仏を用ひ、我に離るゝ程申さるべし。我に離ると云ふは南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と死習ふて、死の隙を明くる事也。其方も自本は秘蔵なるへし、永き事は入らぬ、只念仏を以て自本を申し尽すべしと也。