驢鞍橋 / 卷上
又曰、諸藝皆禪定の機を以て爲す事也。就中兵法抔はぬけた心にて使はるべからずと、自らきつと太刀を構へたる模樣を爲して曰、皆是れ禪定の機也、然れとも兵法者は使ふ時計り禪定にて、太刀を置くと早拔ける也。然るに佛道修行の者は、常住抜かさず此機を用ふる也。此故に一切に負ける事なし。次第に煆鍊じ熟するに隨つて、謠や拍子の樣なる事にも合ふて、万事に相應して萬德圓滿也。如是用ふるを佛法と云ふ也。
新字:又曰、諸芸皆禅定の機を以て為す事也。就中兵法抔はぬけた心にて使はるべからずと、自らきつと太刀を構へたる模様を為して曰、皆是れ禅定の機也、然れとも兵法者は使ふ時計り禅定にて、太刀を置くと早抜ける也。然るに仏道修行の者は、常住抜かさず此機を用ふる也。此故に一切に負ける事なし。次第に煆錬じ熟するに随つて、謡や拍子の様なる事にも合ふて、万事に相応して万徳円満也。如是用ふるを仏法と云ふ也。
書き下し
又曰、諸芸皆禅定の機を以て為す事也。就中兵法抔はぬけた心にて使はるべからずと、自らきつと太刀を構へたる模様を為して曰、皆是れ禅定の機也、然れとも兵法者は使ふ時計り禅定にて、太刀を置くと早抜ける也。然るに仏道修行の者は、常住抜かさず此機を用ふる也。此故に一切に負ける事なし。次第に煆錬じ熟するに随つて、謡や拍子の様なる事にも合ふて、万事に相応して万徳円満也。如是用ふるを仏法と云ふ也。
現代語訳
また言われた。諸々の芸はみな、禅定の気迫によってすることである。とりわけ兵法などは、抜けた心で使うことはできない、と自らきっと太刀を構えた様子をして言われた。これはみな禅定の気迫である。けれども兵法者は、使うときだけ禅定で、太刀を置くとすぐに抜けてしまう。ところが仏道を修行する者は、常に抜かさずこの気迫を用いる。だから一切に負けることがない。次第に鍛錬して熟するにしたがって、謡や拍子のようなことにも合って、万事に相応し、万徳円満である。このように用いるのを仏法というのである、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る侍に示して曰く、始めより忙敷中にて坐禅を仕習ふたるが好き也。殊に侍は鯨波の中に用ふる坐禅を仕習はで不叶、鉄鉋をばたばたと打立て、互に鑓先を揃へて、わつわつと云ふて乱れ逢ふ中にて、急度用ひて爰で使ふ事也。なにと静なる処を好む坐禅が、加様の処にて使はれんや。総して侍はなにと好き仏法なりと云ふとも、ときの声の内にて用に立たぬ事ならは、捨たがよき也。然る間常住二王心を守習ふ外なし。扨初心の者二王心の外にて、万事の上に使ふ事成るへからず。
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『驢鞍橋』卷上然るに今時仏法廃れ果て、すべ悪く成りて、活きた機を用ゆる者なし。皆死漢計り也。仏道には活漢とて活きた機を用ゆること是れを知らす、殊勝になん柔和になり、沈入りて仏法と思へり。或は悟りたる抔とさもなきことを鼻に上げ狂ひありく者多し。只我は殊勝けなことをも、悟りけなことをも知らす、十二時中浮心を以て万事に勝つ事計り用ゆる也。何れも二王不動の堅固の機を受修し行して、悪業煩悩を滅すべしと自ら眼をすゑ、拳を握り歯ぎしりして曰く、きつと張懸けて守る時、何にても面を出す者なし。始終此勇猛の機一つを以て、修行は成就する也。別に入ること無し。何たる行業もぬけがらに成りてせば、用に立つべからず。强く眼を著けて禅定の機を修し出すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日誦経の次て示して曰く、体をすつくと持ち、機をほぞの下に落し付け、眼をすゑて誦経すべし。如是せは誦経を以て禅定の機を修し出すべし。ぬけからに成りて誦せば、功徳とも成るへからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、平生禅定にて居るほど、坐禅を仕習ふへし。浄土宗には念仏を以て信心を申し起し、禅宗には坐禅を以て無相無念の本心を修し出だす也。然る間强く眼をつけて、自ら勇猛精進の心湧出づるほど修すべし。左無くんば彼煩悩に負けて、坐禅常住なるへからずと也。