驢鞍橋 / 卷下
扨て又今時諸方の念を起すまいと云ふ坐禪は、その起すまいと云ふ念が、早や起る也。念起さず、坐禪の筋も作して見たり。この前、萬安和尙、岩村に居り給ふ時、彼處に至るに、一念起すまいとさへ思へば、石平より岩村迄、一念も起さす行きし也。然れども、是れも勇猛の機にて保つたこと也。其沈んた念起さず坊に非す、兎角大念起らすして、諸念休むべからず、畢竟諸方は「念起さす坐禪」我は「念起し坐禪」也。我は須彌山程の大念を起さすると也。
新字:扨て又今時諸方の念を起すまいと云ふ坐禅は、その起すまいと云ふ念が、早や起る也。念起さず、坐禅の筋も作して見たり。この前、万安和尚、岩村に居り給ふ時、彼処に至るに、一念起すまいとさへ思へば、石平より岩村迄、一念も起さす行きし也。然れども、是れも勇猛の機にて保つたこと也。其沈んた念起さず坊に非す、兎角大念起らすして、諸念休むべからず、畢竟諸方は「念起さす坐禅」我は「念起し坐禅」也。我は須弥山程の大念を起さすると也。
書き下し
扨て又今時諸方の念を起すまいと云ふ坐禅は、その起すまいと云ふ念が、早や起る也。念起さず、坐禅の筋も作して見たり。この前、万安和尚、岩村に居り給ふ時、彼処に至るに、一念起すまいとさへ思へば、石平より岩村迄、一念も起さす行きし也。然れども、是れも勇猛の機にて保つたこと也。其沈んた念起さず坊に非す、兎角大念起らすして、諸念休むべからず、畢竟諸方は「念起さす坐禅」我は「念起し坐禅」也。我は須弥山程の大念を起さすると也。
現代語訳
さてまた、今どき諸方の、念を起こすまいという坐禅は、その起こすまいという念が、もう起こっているのである。私も、念を起こさない坐禅の筋もやってみた。以前、万安和尚が岩村におられたとき、そこへ行くのに、一念も起こすまいとさえ思えば、石平から岩村まで、一念も起こさずに行った。けれども、これも勇猛の気迫で保ったことである。あの沈んだ念起こさず坊ではない。とにかく大きな念が起こらなければ、諸々の念は休まないだろう。つまるところ、諸方は念起こさず坐禅、私は念起こし坐禅である。私は須弥山ほどの大きな念を起こさせるのである、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孟子・盡心章句上公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」
-
荀子・大略篇公行子之(こうこうしし)、燕(えん)に之(ゆ)き、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇(あ)ひて曰く、「燕君(えんくん)は何如(いかん)」と。曾元曰く、「志(こころざし)卑(ひく)し。志卑き者は物を軽んじ、物を軽んずる者は助けを求めず。苟(いやしく)も助けを求めずんば、何ぞ能(よ)く挙(あ)がらん。氐羌(ていきょう)の虜(とりこ)たるや、其の係累(けいるい)せらるるを憂へずして、其の焚(や)かれざるを憂ふ。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利として、国家を害(そこな)ひ靡(ほろぼ)す、然も且(か)つ之を為す、幾(あ)に知計(ちけい)を為すと為さんや」と。
-
史記 伯夷列伝子曰く、「道同じからざれば相ひ為に謀らず」と。亦た各々其の志に従ふなり。故に曰く、「富貴もし求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従はん」と。「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」。世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる。豈に其の重んずること彼の若く、其の軽んずること此くの若くなるを以てせんや。
-
論語・里仁篇子曰わく、いやしくも仁に志せば、悪しきこと無し。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」
-
葉隠・聞書第一一度打向へば、最早(もはや)其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後(のち)に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして学に志すとは、即ち聖人なり。初発心時(しょほっしんじ)辨成正覚(べんじょうしょうがく)ともこれあるなり。