驢鞍橋 / 卷下
同十八日、夜話に曰く、古人にも修行强き人はまれなるべし。然ればこそ、云ひ置かれたる事に、手强いことを見ず。中峯和尙座右の銘の箇條の如きも、始め二つ三つは大畧にも有り。その外は事の欠けた載せ物也。古へのは大形此の筋也。是は好きことの至極せる處也。如是しては實の念增すべし。その故は好き人に成る□也。如是用ゐて、何としても体を執する念休むべからず。夫れ佛修行の本意は、離相離名を躰として出離得脫すること一つ也、我書ならば、ぶつつけて離相離名に心を着て修すべき事、又捨身の心を守て臭肉に執着すべからざる事抔と書くべき也。少々のことにては、有相執着の一念盡くべからずと也
新字:同十八日、夜話に曰く、古人にも修行强き人はまれなるべし。然ればこそ、云ひ置かれたる事に、手强いことを見ず。中峯和尚座右の銘の箇条の如きも、始め二つ三つは大略にも有り。その外は事の欠けた載せ物也。古へのは大形此の筋也。是は好きことの至極せる処也。如是しては実の念增すべし。その故は好き人に成る□也。如是用ゐて、何としても体を執する念休むべからず。夫れ仏修行の本意は、離相離名を体として出離得脫すること一つ也、我書ならば、ぶつつけて離相離名に心を着て修すべき事、又捨身の心を守て臭肉に執着すべからざる事抔と書くべき也。少々のことにては、有相執着の一念尽くべからずと也
書き下し
同十八日、夜話に曰く、古人にも修行强き人はまれなるべし。然ればこそ、云ひ置かれたる事に、手强いことを見ず。中峯和尚座右の銘の箇条の如きも、始め二つ三つは大略にも有り。その外は事の欠けた載せ物也。古へのは大形此の筋也。是は好きことの至極せる処也。如是しては実の念增すべし。その故は好き人に成る□也。如是用ゐて、何としても体を執する念休むべからず。夫れ仏修行の本意は、離相離名を体として出離得脫すること一つ也、我書ならば、ぶつつけて離相離名に心を着て修すべき事、又捨身の心を守て臭肉に執着すべからざる事抔と書くべき也。少々のことにては、有相執着の一念尽くべからずと也
現代語訳
同じ十八日、夜話で言われた。古人にも修行の強い人はまれであろう。だからこそ、言い置かれたことに、手強いことを見ない。中峰和尚の座右の銘の箇条のようなものも、始めの二つ三つはまずまずである。そのほかは、事の欠けた載せ物である。昔のものはたいていこの筋である。これは良いことの至極したところである。このようにしては、実有の念が増すだろう。そのわけは、良い人になる□である。このように用いては、どうしても体に執着する念は休まないだろう。そもそも仏の修行の本意は、形を離れ名を離れることを体として、出離解脱すること一つである。私が書くなら、いきなり、形を離れ名を離れることに心をつけて修すべき事、また捨身の心を守って臭い肉に執着してはならない事、などと書くだろう。少々のことでは、形あるものへの執着の一念は尽きないだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、古の祖師達にも、修行熟せるは少しと見えたり。大方小見解を是とし、経文語録を以て法語を書き、教化抔して語録等を残されたると思ふ也。なければこそ强く心を修した位を、誰でも書き残したる人なし。皆心安く隙を明けて成らぬと云ふ事を云ひ置きたる人なし。我は末世に残すならば、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を書付けて残すへしと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。
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『驢鞍橋』卷下同十八日、去る俗士来り、某今迄終に仏法承らす、油断者也と云つて法要を問ふ。師曰く、何くにても聞きめされぬか仕合也。若し聞きめされたらば、疾く悟て隙を明けめさるべし。総而聞きて合点して置くことに非す。只修し行して、少し宛も心の垢を抜くこと也。暗心も明く成り、弱心も强く成る様に修すること、先つ大すべを心得めされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日来者に語て曰く、わがをつ切りの中にも云ひ習ふて、道理の上手は多きなり。然れども修行する者は一人もなし。我此前石の平にて少し沙汰しければ、皆理窟仏法に成るに依て飽果て、ふつと理を沙汰せず、ちよつとよりから一向に修し行する事計りを授くる也。総して仏道には利根知を嫌ふて、只頓機を法器とす。殊に禅法は執着を捨つる一つ也と云ふは、平生切端を用ゆる事也。生死を守ると云ふも切端一つ、禅機と云ふも切端の事也。
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。