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驢鞍橋 / 卷下

午の八月十五日、夜話に曰く、今時の出家すべを知らさる故に、追腹を切らすること非義の至なり。笑止千萬なること、是れに過きたることなし。三國ともに聖人の御代になきことなれども、當代の出家すべをしらざる故に、此の非義始まる也。然る間、追腹を切らせたる坊主共を木像に造り、その寺寺の門前にはりつけに懸けて、末代迄の掟にし度思ふ也。俗方の少しも存しなきこと、只出家の咎也。少し理の有る出家ならば云ふ筈也若し引導を賴み來るとも、追腹有らば罷成らぬ、その故は、引導と申すは、輪廻を免るゝ樣に弔ふこと也。然るに左樣の輪廻好きの人弔ふこと、ふつとならぬと云な切る筈也。然れとも是程のことさへえ云ふ人なし。我に云はれて、尤もと受けたる僧達も有れども、是れも變なし。我胸から出ねは自由に云はれぬと見えたり。生死を離るやうに弔ふと云ふことをも知らず、輪廻の業と云ふことをも知らず、扨ても淺ましき土入道計哉。

新字:午の八月十五日、夜話に曰く、今時の出家すべを知らさる故に、追腹を切らすること非義の至なり。笑止千万なること、是れに過きたることなし。三国ともに聖人の御代になきことなれども、当代の出家すべをしらざる故に、此の非義始まる也。然る間、追腹を切らせたる坊主共を木像に造り、その寺寺の門前にはりつけに懸けて、末代迄の掟にし度思ふ也。俗方の少しも存しなきこと、只出家の咎也。少し理の有る出家ならば云ふ筈也若し引導を頼み来るとも、追腹有らば罷成らぬ、その故は、引導と申すは、輪廻を免るゝ様に弔ふこと也。然るに左様の輪廻好きの人弔ふこと、ふつとならぬと云な切る筈也。然れとも是程のことさへえ云ふ人なし。我に云はれて、尤もと受けたる僧達も有れども、是れも変なし。我胸から出ねは自由に云はれぬと見えたり。生死を離るやうに弔ふと云ふことをも知らず、輪廻の業と云ふことをも知らず、扨ても浅ましき土入道計哉。

書き下し

午の八月十五日、夜話に曰く、今時の出家すべを知らさる故に、追腹を切らすること非義の至なり。笑止千万なること、是れに過きたることなし。三国ともに聖人の御代になきことなれども、当代の出家すべをしらざる故に、此の非義始まる也。然る間、追腹を切らせたる坊主共を木像に造り、その寺寺の門前にはりつけに懸けて、末代迄の掟にし度思ふ也。俗方の少しも存しなきこと、只出家の咎也。少し理の有る出家ならば云ふ筈也若し引導を頼み来るとも、追腹有らば罷成らぬ、その故は、引導と申すは、輪廻を免るゝ様に弔ふこと也。然るに左様の輪廻好きの人弔ふこと、ふつとならぬと云な切る筈也。然れとも是程のことさへえ云ふ人なし。我に云はれて、尤もと受けたる僧達も有れども、是れも変なし。我胸から出ねは自由に云はれぬと見えたり。生死を離るやうに弔ふと云ふことをも知らず、輪廻の業と云ふことをも知らず、扨ても浅ましき土入道計哉。

現代語訳

午の年八月十五日、夜話で言われた。今どきの出家がやり方を知らないために、追腹(殉死)を切らせることは、道理にはずれることの極みである。笑止千万なことで、これに過ぎることはない。三国ともに聖人の御代にはないことだが、当代の出家がやり方を知らないために、この非義が始まったのである。だから、追腹を切らせた坊主たちを木像に造り、その寺々の門前に磔に掛けて、末代までの掟にしたいと思う。俗人の少しも知らないことで、ただ出家の咎である。少し理のある出家なら言うはずである。もし引導を頼みに来ても、追腹があるなら、お引き受けできない。そのわけは、引導というのは、輪廻を免れるように弔うことである。それなのに、そのような輪廻好きの人を弔うことは、まったくできない、と言い切るはずである。けれども、これほどのことさえ言える人がいない。私に言われて、もっともだと受け止めた僧たちもいるが、これも変わりがない。自分の胸から出なければ、自由には言えないと見える。生死を離れるように弔うということも知らず、輪廻の業ということも知らない。さても浅ましい土入道ばかりだな。

解説

主君の死を追って家臣が切腹する殉死を、正三は、道理にはずれることの極みだと激しく批判し、殉死者の葬儀を引き受ける僧の責任を問う。引導とは迷いの世界から救い出す弔いなのに、執着から命を絶つ人を弔えるはずがないと言い切るべきだ、と。殉死は後に幕府が禁じるが、正三はそれに先立ち、宗教者が命の問題に沈黙することを咎めた。慣習に流されず、立場のある人が声を上げる責任を示す条である。

この章句が説くこと

殉死追腹宗教者の責任慣習批判引導声を上げる

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