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驢鞍橋 / 卷下

一日、去る處にて狐に著れたる者有り、師彼の家に留り、晩に至て息臥有り、彼の者を相付け、傍に置き給ふ。良有て後、如何にも靜に田村の「キリ」を歌ひ給へば、彼の者あつと云つて本機に成り、扨て扨て口惜きこと哉、此の間狐に著れたり。只今敵は滅ひにけり、是れ觀音の佛力なりと宣ふを聞くと、不圖本機に罷り成る也。永き次第也と云つて悅ふこと限りなし。時に一僧、彼の者に問ふ、此の間狐に著れたる中の心は如何樣に有りたるや。彼の者曰く、いや只なにもかも人の云ふ事、皆我事を云ふ樣に思はれ、迷惑限りなし。左ではない物抔と思ひ腹立つ也。又人のおどけくるをも、我を何とうするかと思はれ、只怖しき念計也。師聞て曰く、畜生に生を得る抔は、扨ても苦なること哉、畜生の心は、皆常さうこそ有るらん、やれやれかわゆいこと哉と也。

新字:一日、去る処にて狐に著れたる者有り、師彼の家に留り、晩に至て息臥有り、彼の者を相付け、傍に置き給ふ。良有て後、如何にも静に田村の「キリ」を歌ひ給へば、彼の者あつと云つて本機に成り、扨て扨て口惜きこと哉、此の間狐に著れたり。只今敵は滅ひにけり、是れ観音の仏力なりと宣ふを聞くと、不図本機に罷り成る也。永き次第也と云つて悦ふこと限りなし。時に一僧、彼の者に問ふ、此の間狐に著れたる中の心は如何様に有りたるや。彼の者曰く、いや只なにもかも人の云ふ事、皆我事を云ふ様に思はれ、迷惑限りなし。左ではない物抔と思ひ腹立つ也。又人のおどけくるをも、我を何とうするかと思はれ、只怖しき念計也。師聞て曰く、畜生に生を得る抔は、扨ても苦なること哉、畜生の心は、皆常さうこそ有るらん、やれやれかわゆいこと哉と也。

書き下し

一日、去る処にて狐に著れたる者有り、師彼の家に留り、晩に至て息臥有り、彼の者を相付け、傍に置き給ふ。良有て後、如何にも静に田村の「キリ」を歌ひ給へば、彼の者あつと云つて本機に成り、扨て扨て口惜きこと哉、此の間狐に著れたり。只今敵は滅ひにけり、是れ観音の仏力なりと宣ふを聞くと、不図本機に罷り成る也。永き次第也と云つて悅ふこと限りなし。時に一僧、彼の者に問ふ、此の間狐に著れたる中の心は如何様に有りたるや。彼の者曰く、いや只なにもかも人の云ふ事、皆我事を云ふ様に思はれ、迷惑限りなし。左ではない物抔と思ひ腹立つ也。又人のおどけくるをも、我を何とうするかと思はれ、只怖しき念計也。師聞て曰く、畜生に生を得る抔は、扨ても苦なること哉、畜生の心は、皆常さうこそ有るらん、やれやれかわゆいこと哉と也。

現代語訳

ある日、ある所で狐に取り憑かれた者がいた。師はその家に泊まり、晩になって休まれ、その者を連れて来させて、傍らに置かれた。しばらくして、いかにも静かに『田村』のキリを歌われると、その者はあっと言って正気に戻り、さてさて口惜しいことだ、この間狐に取り憑かれていた。ただ今、敵は滅びた、これは観音の仏力である、とおっしゃるのを聞くと、ふと正気になりました。長いことでした、と言って喜ぶことこの上なかった。そのとき一人の僧がその者に尋ねた。この間、狐に取り憑かれていた間の心はどのようであったか。その者は言った。いや、ただ何もかも人の言うことが、みな自分のことを言っているように思われて、困り果てました。そうではないのに、などと思って腹が立つのです。また人がふざけるのも、自分をどうするのかと思われて、ただ恐ろしい思いばかりでした。師は聞いて言われた。畜生に生まれるなどは、さても苦しいことだな。畜生の心は、みないつもそうなのだろう。やれやれ、かわいそうなことだな、と。

解説

狐憑きの人の傍で、正三が謡曲田村の結びを静かに歌うと、その人は正気に戻った。憑かれていた間は、人の言うことがみな自分への悪口に聞こえ、人がふざけるのも自分を害するためかと恐ろしかった、と語る。今でいう被害妄想の状態に近い。正三はそれを聞いて、畜生の心はいつもそうなのだろう、かわいそうに、と言う。疑いと恐れに満ちた心の苦しさを、責めるのではなく哀れみをもって受け止める姿勢が印象的である。
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この章句が説くこと

狐憑き被害妄想謡田村恐れ哀れみ

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