驢鞍橋 / 卷下
夜話に曰く、生付て無漏に近き性と、有漏の强い性あり。關山の褒め給ふ如く、いかき性は、生付て無漏に近き性也。何として分別し回つて、丈夫に物を仕損せぬやうな機は、實の强き性也。なにほど眞實ありても、實の失すまじき性哉と思はるゝ生付もあるもの也。
新字:夜話に曰く、生付て無漏に近き性と、有漏の强い性あり。関山の褒め給ふ如く、いかき性は、生付て無漏に近き性也。何として分別し回つて、丈夫に物を仕損せぬやうな機は、実の强き性也。なにほど真実ありても、実の失すまじき性哉と思はるゝ生付もあるもの也。
書き下し
夜話に曰く、生付て無漏に近き性と、有漏の强い性あり。関山の褒め給ふ如く、いかき性は、生付て無漏に近き性也。何として分別し回つて、丈夫に物を仕損せぬやうな機は、実の强き性也。なにほど真実ありても、実の失すまじき性哉と思はるゝ生付もあるもの也。
現代語訳
夜話で言われた。生まれつき無漏(執着のない心)に近い性分と、有漏(執着の多い心)の強い性分がある。関山和尚が褒められたように、いかき(ざる)のような性分は、生まれつき無漏に近い性分である。どうしても分別して回り、しっかりと物事を仕損じないような気質は、実有の強い性分である。どれほど真実があっても、実有の思いが失せそうもない性分だと思われる生まれつきもあるものだ。
解説
人には生まれつき執着の少ない性分と、執着の強い性分がある、と正三は言う。関山慧玄が、盛りを持ってこいと言われて笊を持ってきた小僧を法の器だと褒めた逸話が、この条の後段に付されている。何でも取りこぼしなく分別して失敗しない几帳面な人ほど、物事を実在と見る執着が強い、という指摘は興味深い。長所と見られる性質が、別の面では道の妨げになりうる、と人の性分を多面的に見る視点である。
この章句が説くこと
性分無漏有漏関山慧玄実有多面的
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日衆に謂て曰く、仏法に入る性、入らさる性を見知りたるや。一僧曰く、大略見え候也。先程両人来るもの、一人は少し性明く見え、一人は如何にも暗く見え申す也。師聞て曰、能く見られたり、彼らは我も如是見る。好し好し其如く人を見知るべし。我始め煆錬無き時、誰をも彼をも一つに思ひ、人毎に成る物と計り思ひて、人を見知らさりしと也。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、其方の性はあぶない性也。人に褒られて頓て鼻を長くし、角をはやしてかけ廻はる性なり。でも其方を褒めぬ人有るへからず。我様にぼつ下して、悪く云ふ者有るへからず。我に逢ひめされたる功徳には、搆へて人に損はれめさるゝなと、是れを授け申すぞと也。晩に至て衆に語て曰、昼の者は理過ぎたる者に非すや、あのやうな格は仏法に入り難し。云へば云ふ程理が長ずる也。あれは棒でなけれは成らぬなり。云ふ程の事を扣き詰め扣き詰めせば、少しは好く成るべし。我師家を立つるならば、接し様もあれどもと也。時に一僧曰、某甲抔はあのやうな病の多き者には出合ふ事もいや也。師聞て曰、我は成程六け敷者が能き也。正三を詰める程の人に逢ひたけれども、無仕合にて今迄合はぬ也。あはれ我をせりつむる人ほしゝと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、語て曰く、言句に叶ひたると自性に叶ひたるとは各別也。何れも少し徹して覚えたり。喩へは諸行無常の意に徹すれは、事々に諸行無常の文先きに出る位あり。扨て又自性に叶ひたるは、無し無し無しで無体也。大に差別有りと也。
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『驢鞍橋』卷下因に人問ふ、神秀大師の真性の偈は、邪見なりや。師曰く、自性を見たる偈には非ず。然れども修行の指南には宜し。又問ふ、乍去師の嫌ひ玉ふ処の実有の念を以て修すること□生れなから無漏心の人有るべからず。心を以て心を拭つては捨て捨てするより外なし、但し其の内念に戦て妄想からかひするは錯也。只勇猛心を以て善悪の心共に打払ひ打払ひぬんと用ふべき也。○いかき性とは、関山和尚堂もりし時、もりを持来れと有けれは、人の小僧ちやつといかきを持来てもりにすく。関山之を見て、法器なりと褒め給ふこと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、実有と云ふ事離れがたき物也。我も人も家屋金銀万事目の前にきらりつと有る事なれば、如何にしても無しとは思はれぬ也。兎角本性を見ずんば、実有は醒むへからす。我も此時節には逢ひたれとも、自由に使ふ事はならす。平生此糞袋に眼を着けて、行住坐臥大小便裏、少しも指置かす、□すだわ事の苦体め哉と、急度睨付けて居る機强く備つて居る也。然れどもまだはらりつと隙は明かぬ也。乍去我見解も少しなれとも、是程にても亦使はるる事有りと也。
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『驢鞍橋』卷上壬辰十月六日、夜話に曰く、ふくわん者はぶんまけて娑婆に苦む事少し、是れ法器也。了庵和尚も法は関東らつはに移るべしと云ひ給ふと聞く。是れ好き見様也。乍去ふくわん計りにてしつかとしたる機一つ無くては、修行成りかたし。其故は娑婆の麁草な程、修行も麁草にうかつき回つて、落着いて修する事無し。時に去る者云、誠に某長老のやうに麁草なる人は、修行成りがたかるべし。師曰く、中々ぶんまけの笑敷人也。取留る事の成る性に非ず。あれは何をも彼をも打捨て打捨てめされよと、捨修行に教へたるがよき也。