驢鞍橋 / 卷下
次に語て曰く、去る□者の頓悟成佛は下根の爲め也と佛說に有りて云はれけるが、誠に然るべきこと也。何か五十二位を歷盡し、一から十迄ひら責めに責め盡して、多生迄もかけて盡す義なれば、下根の及ふ處に非ず、扨て又先づ一理を見得さするの道理は、實に下根の爲めなるべしと也。
新字:次に語て曰く、去る□者の頓悟成仏は下根の為め也と仏説に有りて云はれけるが、誠に然るべきこと也。何か五十二位を歴尽し、一から十迄ひら責めに責め尽して、多生迄もかけて尽す義なれば、下根の及ふ処に非ず、扨て又先づ一理を見得さするの道理は、実に下根の為めなるべしと也。
書き下し
次に語て曰く、去る□者の頓悟成仏は下根の為め也と仏説に有りて云はれけるが、誠に然るべきこと也。何か五十二位を歴尽し、一から十迄ひら責めに責め尽して、多生迄もかけて尽す義なれば、下根の及ふ処に非ず、扨て又先づ一理を見得さするの道理は、実に下根の為めなるべしと也。
現代語訳
続けて語って言われた。ある□者が、頓悟成仏は下根の者のためである、と仏説にある、と言われたが、まことにもっともなことである。なぜなら、五十二位を歴尽し、一から十までひたすら責めに責め尽くして、多生までもかけて尽くすことであるから、下根の者の及ぶところではない。さてまた、まず一つの理を見させるという道理は、まことに下根の者のためであろう、と。
解説
一気に悟る頓悟成仏は、能力の劣る者のための教えだ、という説に、正三は同意する。本来の修行は五十二の段階を一つずつ責め尽くし、何度生まれ変わってもかけて尽くすものだから、能力の劣る者には到底及ばない。だから、まず一つの道理を見させるという方法が、そういう人のために用意されたのだ、と。一気に悟るという魅力的な近道は、実は長い道に耐えられない人への方便だ、という逆転した見方である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
頓悟五十二位下根方便近道段階
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『驢鞍橋』卷中仏は世界に有りと有る程の事は、皆作し尽くして成道也。此の間を娑婆往来八千度と云ふ也。此の故に世界の中の諸芸、皆世人より上手也。十方世界尽く天外地外迄知り玉はざる所なし。芥子計も作し得たまはざる事なし。実に三大阿僧祇劫を歴ての成仏と見えたり、扨て扨て広大無辺思量に不及処也。総而我作して見てさへも、大儀な物哉。多生にも成就し難かるべしと思はるゝなり。然るに皆骨髄に徹して作して見て、さてもならぬ物哉と云ふ事を知らす、ちよつと成る様に思はるゝに依て、少見解有れは、はや如来と別ならすと思はるゝ也。経には五十二位を立て給ふ、此の一地を歴る間も、幾劫ならんや。聖徳太子も、六地の菩薩弘法大師も、やうやう三地に入りたまふと聞く也。急になる事にあらす。禅宗には一筋の理を見せて得入さする也。夫れとても多劫に修し尽くさでは叶はず、古人と云つても、境界よふ熟せるは少かるべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日衆に語て曰く、初心の者に悟を安く授け、暫時に際を明けさする事大罪也。今時世間に此類多し、恐るべき事也。我は只浄土宗の様に念仏を申習はする位がすき也。其故に初心の者には先づ所作を授くる也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時の諸宗に仏道の大筋を教へたし。何の口伝も無き事、只志を進め真実を発し、修し行して仏祖の意を大切にする計り也。此心法は徹しても大事、徹せすしても大事也。兎角修しさへすれは心磨けて行く程に、悟らずして悟る也。今時も悟らすして悟つて居る人はあるべし。扨も笑止千万の事は、法の筋違つて居る故に、悟つて迷ふ人世に多しと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、小僧共は先つ法門より教へ度也。法門にて意のすべを知らすること易きなり。実に承当さすることは難し。習ひ事は暫時に成ること也。今時のずりさがり、法門を習はせんよりは、せめてすべなりとも能く知らせ度、只うはかゝのやうに念仏したるもよけれとも、其でも亦人の為めに成りかたし。意のすべをも心得たるが好き也。良有て曰く、乍去意何程移りたりとも、糞袋秘蔵の念は休むべからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。