驢鞍橋 / 卷下
夜話次に曰く、八萬餘經を說き給ふ佛の御心は、扨ても扨ても廣大なることに非すや。又煩惱にも八萬四千の名を付け給ふ也。其方達は煩惱に名を如何程付けめされんや。我はやつと三十計付んと思ふ也。人々我煩惱にさへ名を付け得さるに、八萬餘經の御工夫抔は、扨て扨て出ても出てたり。無量無邊の御心哉と也。
新字:夜話次に曰く、八万余経を説き給ふ仏の御心は、扨ても扨ても広大なることに非すや。又煩悩にも八万四千の名を付け給ふ也。其方達は煩悩に名を如何程付けめされんや。我はやつと三十計付んと思ふ也。人々我煩悩にさへ名を付け得さるに、八万余経の御工夫抔は、扨て扨て出ても出てたり。無量無辺の御心哉と也。
書き下し
夜話次に曰く、八万余経を説き給ふ仏の御心は、扨ても扨ても広大なることに非すや。又煩悩にも八万四千の名を付け給ふ也。其方達は煩悩に名を如何程付けめされんや。我はやつと三十計付んと思ふ也。人々我煩悩にさへ名を付け得さるに、八万余経の御工夫抔は、扨て扨て出ても出てたり。無量無辺の御心哉と也。
現代語訳
夜話のついでに言われた。八万余りの経を説かれた仏のお心は、さてもさても広大なことではないか。また煩悩にも八万四千の名をお付けになった。あなたたちは煩悩に名をいくつ付けられるか。私はやっと三十ばかり付けられると思う。人々は自分の煩悩にさえ名を付けられないのに、八万余経のご工夫などは、さてさて見事なことだ。無量無辺のお心だな、と。
解説
仏は八万四千もの煩悩に名を付け、それぞれに教えを説いた。自分は自分の煩悩に三十ほどしか名を付けられない、と正三は言う。自分の心の迷いを細かく見分けて名前を付けることさえ難しいのに、人々のあらゆる迷いを見分けて教えを説いた仏の心の広大さに、改めて感嘆している。自分の感情や悪癖を具体的に言葉にできるか、という問いは、自己理解の出発点として、今日の心理学にも通じる視点である。
この章句が説くこと
煩悩名付け自己理解八万四千感嘆仏
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