驢鞍橋 / 卷上
夜話の次てに去る僧云、町を通り見れば、用も無き物をちよつとほしいものかなと思ふ心出づる也。師曰、夫れは餓鬼道に久しく在りし習氣なるべし。時に又一人在り曰、某も隨分此心を滅せんと仕れ共、なにとしても失はず。師曰、其心にさからうべからず、唯一筋に念佛せらるへし。念佛の功積らば、萬事は自ら失ふへしと也。
新字:夜話の次てに去る僧云、町を通り見れば、用も無き物をちよつとほしいものかなと思ふ心出づる也。師曰、夫れは餓鬼道に久しく在りし習気なるべし。時に又一人在り曰、某も随分此心を滅せんと仕れ共、なにとしても失はず。師曰、其心にさからうべからず、唯一筋に念仏せらるへし。念仏の功積らば、万事は自ら失ふへしと也。
書き下し
夜話の次てに去る僧云、町を通り見れば、用も無き物をちよつとほしいものかなと思ふ心出づる也。師曰、夫れは餓鬼道に久しく在りし習気なるべし。時に又一人在り曰、某も随分此心を滅せんと仕れ共、なにとしても失はず。師曰、其心にさからうべからず、唯一筋に念仏せらるへし。念仏の功積らば、万事は自ら失ふへしと也。
現代語訳
夜話のついでに、ある僧が言った。町を通って見ると、用もないものを、ちょっと欲しいものだなと思う心が出てきます。師は言われた。それは餓鬼道に長くいた習気なのだろう。そのとき、もう一人が言った。私もずいぶんこの心を滅ぼそうとしておりますが、どうしても失せません。師は言われた。その心に逆らってはならない。ただ一筋に念仏されるがよい。念仏の功が積もれば、万事はおのずから失せるだろう、と。
解説
町で用もない物を欲しくなる心を、正三は餓鬼道に長くいた頃の癖だと言う。それを消そうとしても消えないと嘆く僧には、その心に逆らうな、ただ念仏せよと勧める。欲しい気持ちと戦うほど、かえってその気持ちに注意が向いてしまう。戦うのではなく、別の行に打ち込むうちに自然と薄れていく。衝動買いや余計な欲に悩む人に、欲を無理に押さえ込まず、打ち込む対象を持つことの効用を教えている。
この章句が説くこと
物欲習気念仏逆らわない餓鬼道衝動
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上夜話の次て、去る人某欲を離れたりと云ふ。師聞て曰く、少し無欲に成りたりとも何の用にも立たぬ事也。我は只欲がすき也。仏に成り度き欲を持ちたる者ほしゝ、なに古人も人にてこそあらんず、我とても劣らんや。生々世々に於て是非に成仏得脫して、一切衆生を度せんと云ふ大欲かわきがほしゝと也。
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『驢鞍橋』卷上是れは只今其方の心の輪廻するを以て知るべし。善念頓て悪念に成り、悪心も亦善心に成る也。天道より地獄に往き、地獄より天道に往く証拠是れ也。余の悪道を廻る事も如是。此念を離れて不生不滅なるを成仏と云ふ也。如是我と念根を修し尽して、成仏すること也。何として傍より其方の念を休めんや。强く眼を着け、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と命を限りにひた責めに責めて、念根を可尽すべし。総じて大なる悪、及ばさる望は休む物也、されとも兎角なにか有る物也。念根の切尽す事難し。然る間此糞袋を敵にし、念仏を以て申滅すへし。是れ念根を切る修行也。彼者云、然らば此身を離る事と心得て置くべきや。師呵して曰く、心得て置くは悪き也。仏道と云ふは心得て置く事に非す、身心を修し尽す事也。
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『驢鞍橋』卷上文字にて云ふ事は悪敷事なれども、念仏を初心に思はるる間申すへし、念仏の二字は仏を思ふとかく也。常に仏を思ふ人有るへからず、皆娑婆思ひなるへし。娑婆を思ふ心は皆悪道の種也。今其方の心の悪道に輪廻するを以て知るべし。心の强き時も有り、弱き時も有り、嗔る時もあり、欲をかく時も有り、ねたみそねむ時もあり、如是悪道ずきにて、此中を廻りて、人間道にも居る事有るへからず。縦ひ亦天上の善果を得たりと云ふとも、頓て地獄に落つる也。其故は今善心少しの間、起れども、頓て悪心に成る也。兎角念根を切らずんば輪廻を免かるゝ事有るへからず。随分念仏して諸念を尽すべし。纔も念残れば、其念の世界に生を受くる也。
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『驢鞍橋』卷下夜話の次、師問衆、何れも学文は詮無きことに思はるゝと見えたり。乍去その志は、先つ物知りと云はれ度もなし。又大地の住持役せんずでもなし又是に仍て成仏せんでもなし。只念仏申して菩提を勤めたるか、增しと思ふ計なるべし。但し又別の思はく有る人も有りや。時に一僧曰く、文字言句は道理に落ちて、胸中塞る間、万劫千生、胸の開ると云ふことあるべからずと存ず。又一僧曰く、仏法を余所に習ひ事に仕りし機、病と成る故に、今御教を承れとも、何としても余所仏法に成り、十分に聞得ぬ位有り、習ひ事の病と成ること慥に覚えて、いやに候也。
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『驢鞍橋』卷上又彼者、悪心休み欲心抔なしと云ふ。師曰、少しの処収りぬれば、是となし居る物也。何程無欲に成り、人好く成りたりとも、此娑婆を楽む念、又我身を思ふ念は休むへからす。是れを離れすんば皆是れ輪廻の業也。是念を滅するには、身心は是れ怨家なりときつと睨詰めて、念仏を以て責滅すばかり也。別に道理の入る事にも非ず、智恵の入る事にも非す、人を頼みて成仏する事にも非す、人の引て地獄へ落すにも非す、地獄へも天道へも只今の念が引て往く也。瞋恚は地獄、欲心は餓鬼、愚癡は畜生、是れを三悪道と云ふ也。此上に修羅人間天上の三善道を加へて、六道と云ふ也。皆是れ一心の内に有る六道也。此間を離れす、上に登り、下に下り、廻り休まさるを六道輪廻と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、今時諸方に安く仏法を授くる人多し、我は授くへき物なし。我処に来ての得所には、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を知らるへし。是れを授け申すぞ。然れとも措かるゝ事に非す、一大事なれば、世々生々に於て種を失はず、終に仏果菩提を成せんと思ふ心は、我も强う持つ也。其方抔も只念仏申しに成りめさるべし。法然抔も念仏の外は菩提の為めに成る事を知らすと云ふて、一枚起請二枚起請三枚起請迄書置かれたり。我も此行を能く思ふ、先づ此行には病が著かぬ也。大鐘を胸の中にぐわんぐわんと扣き込んで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と力を出して申すべし。悪業少しも面を出すべからず。如是平生用ひて念を滅す事也。