驢鞍橋 / 卷下
一日、僧問ふ。一陣に進む心と云ふは、平生人に手を出さすまじと思ふ心なりや、師曰く、夫れは我慢に云ふ物也。人も兎角と云ひしに非ず、只我身をつんと打捨て懸る入心也。果眼と云ふも、死をきつと定めたる機也。
書き下し
一日、僧問ふ。一陣に進む心と云ふは、平生人に手を出さすまじと思ふ心なりや、師曰く、夫れは我慢に云ふ物也。人も兎角と云ひしに非ず、只我身をつんと打捨て懸る入心也。果眼と云ふも、死をきつと定めたる機也。
現代語訳
ある日、僧が尋ねた。一陣に進む心というのは、平生、人に手を出させまいと思う心でしょうか。師は言われた。それは我慢(慢心)というものである。人がどうこう言ったのではない。ただ自分の身をつんと打ち捨てて懸かっていく心である。果たし眼というのも、死をきっと定めた気迫である。
解説
先陣を切って進む心とは、人に手出しをさせないという強気のことか、と問われ、正三は、それは慢心だ、と退ける。人との張り合いではなく、ただ自分の身を投げ捨てて向かっていく心のことだ、と。決死の目つきも、死を覚悟した心の構えである。攻撃的な強さや負けん気と、自分を捨てて臨む覚悟とは違う。他人を意識した強がりではなく、自分自身を手放すことから本当の勇気が生まれる、という区別である。
この章句が説くこと
捨身慢心勇気先陣果眼覚悟
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻四古人云く、奢て上賢にひとしからんと思ふことなかれ、賤ふして下賤にひとしからんと思ふことなかれと、云こゝろは、共に慢心なり、高ふしても下らんことを忘るゝことなかれ、安ふしても危からんことを忘るゝことなかれ、今日存するとも明日もと思ふことなかれ、死の至てちかくあやふきこと脚下にあり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云はく、愚癡なる人は其の詮なきことを思ひ云ふなり、此につかはるゝ老尼公ありけるが、当時いやしげに在るをはづる顏にて、ともすれば人に向ては、昔しは上臘にてありしよしを語る、たとひ而今の人にさもありと思はれたりとも、なんの用とも覚えぬ、甚だ無用なりとおぼゆるなり、皆人の思はくは此の心あるかと覚ゆるなり、道心の無きほども知られたり、是れらの心を改めて、少し人には似るべきなり、亦有る入道の、極めて無道心なるあり、去り難き知音にてある故に、道心おこらんこと仏神に祈誓せよと云はんと思ふ、定て彼れ腹立して中をたがふことあらん、然あれども道心を発さヾらんには得意にてもたがひに詮なかるべし、
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尚書・周官寵に居りて危うきを思い、畏れざる罔く、畏れざれば畏るるに入る。
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