驢鞍橋 / 卷下
一日、僧問ふ。一陣に進む心と云ふは、平生人に手を出さすまじと思ふ心なりや、師曰く、夫れは我慢に云ふ物也。人も兎角と云ひしに非ず、只我身をつんと打捨て懸る入心也。果眼と云ふも、死をきつと定めたる機也。
書き下し
一日、僧問ふ。一陣に進む心と云ふは、平生人に手を出さすまじと思ふ心なりや、師曰く、夫れは我慢に云ふ物也。人も兎角と云ひしに非ず、只我身をつんと打捨て懸る入心也。果眼と云ふも、死をきつと定めたる機也。
現代語訳
ある日、僧が尋ねた。一陣に進む心というのは、平生、人に手を出させまいと思う心でしょうか。師は言われた。それは我慢(慢心)というものである。人がどうこう言ったのではない。ただ自分の身をつんと打ち捨てて懸かっていく心である。果たし眼というのも、死をきっと定めた気迫である。
解説
先陣を切って進む心とは、人に手出しをさせないという強気のことか、と問われ、正三は、それは慢心だ、と退ける。人との張り合いではなく、ただ自分の身を投げ捨てて向かっていく心のことだ、と。決死の目つきも、死を覚悟した心の構えである。攻撃的な強さや負けん気と、自分を捨てて臨む覚悟とは違う。他人を意識した強がりではなく、自分自身を手放すことから本当の勇気が生まれる、という区別である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
捨身慢心勇気先陣果眼覚悟
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『講孟余話』公孫丑上 第二章「孟施舎の勇を養ふ所や」。此の章浩然の気を論ず、其の論甚だ盛大雄偉なり。北宮黝・孟施舎の勇の如きは固より言ふに足らず。但し孟施舎の勇は、武士戦場に向ふ時は角こそ有り度きことなり、因りて其の略を言はん。無懼の二字是れ主なり。勇気敵を呑むと云ふ如く、百万の大敵目に余ると雖も、屑ともせぬことなり。死を知れば必ず勇と云へば、打死と覚悟さへ定まりたれば、大敵猛勢も畏るるに足ることなし。然れども此の勇を養ひて大になさざれば、仮令覚悟定まりたれども、勇気敵を呑む所なし、未だ孟施舎の勇を語るに足らず。孟施舎の如き者一人陣中にあれば、惣軍の気是れが為に大いに増盛し、敗軍も転じて勝軍となる者なり。此の人一人国中にあれば、闔国の気是れが為に増盛し、弱国も転じて強国となる者なり。況や此の人を挙げて将帥の任となすに於てをや。強将の下弱兵なきこと必せり。士安ぞ茲に志さざるべけんや。
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易経・豫卦初六豫を鳴らすとは、志窮まりて凶なり。日を終えず、貞にして吉とは、中正なるを以てなり。盱りて豫しみ悔い有りとは、位当たらざればなり。由りて豫しむ、大いに得る有りとは、志大いに行わるるなり。六五貞にして疾むとは、剛に乗ればなり。恒に死せずとは、中未だ亡びざればなり。豫に冥くして上に在り、何ぞ長かるべけんや。
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尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。
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『正法眼蔵随聞記』巻四古人云く、奢て上賢にひとしからんと思ふことなかれ、賤ふして下賤にひとしからんと思ふことなかれと、云こゝろは、共に慢心なり、高ふしても下らんことを忘るゝことなかれ、安ふしても危からんことを忘るゝことなかれ、今日存するとも明日もと思ふことなかれ、死の至てちかくあやふきこと脚下にあり、
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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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『翁問答』下卷之本体充曰、にせの学問をする人に、世間の交りをむづかしがり、閑居を好み或は心気やみなどの如く、引こもりなどするものあるは、何としたることにて候や。師の曰、それが即ち魔境におち入たるにて候高満の魔心ふかき故に、本来非もなきせけんを非にみて、親のする事も兄弟のする事も、主君のあてがひも朋友のなす業もみなわけもなき妄作なりと得心するによつて、右を見るも左を見るも、皆おのれが心にかなはぬ事ばかりなる故に、世間の交をいとひ、ひとり居る事を好むと知べし。