驢鞍橋 / 卷下
夜話次、人問ふ、佛經多くは譬喻の法にして小乘計也。何として直道は說き給はさるや。師答て曰く、喩へば醫者の病を見付て本藥を與る中に、又脇病さし出るに仍て先づ機を着けん爲めに、本藥には有らねども、蘇香圓をなめさするが如し。佛も最初より本法を與へんと仕給へとも、衆生に相應せす、脇病起る故に、多く小乘を說き給ふ也。此の故に本法を說き給はず、佛經は、皆是蘇香圓佛法也。然るにこれを本法と心得て、今に錯る諸宗多し。只禪門のみ好眞藥を相傳すと也。
新字:夜話次、人問ふ、仏経多くは譬喩の法にして小乗計也。何として直道は説き給はさるや。師答て曰く、喩へば医者の病を見付て本薬を与る中に、又脇病さし出るに仍て先づ機を着けん為めに、本薬には有らねども、蘇香円をなめさするが如し。仏も最初より本法を与へんと仕給へとも、衆生に相応せす、脇病起る故に、多く小乗を説き給ふ也。此の故に本法を説き給はず、仏経は、皆是蘇香円仏法也。然るにこれを本法と心得て、今に錯る諸宗多し。只禅門のみ好真薬を相伝すと也。
書き下し
夜話次、人問ふ、仏経多くは譬喻の法にして小乗計也。何として直道は説き給はさるや。師答て曰く、喩へば医者の病を見付て本薬を与る中に、又脇病さし出るに仍て先づ機を着けん為めに、本薬には有らねども、蘇香円をなめさするが如し。仏も最初より本法を与へんと仕給へとも、衆生に相応せす、脇病起る故に、多く小乗を説き給ふ也。此の故に本法を説き給はず、仏経は、皆是蘇香円仏法也。然るにこれを本法と心得て、今に錯る諸宗多し。只禅門のみ好真薬を相伝すと也。
現代語訳
夜話のついでに、人が尋ねた。仏の経の多くは譬喩の法で、小乗ばかりです。どうして直接の道を説かれなかったのでしょうか。師は答えて言われた。たとえば医者が病を見つけて本薬を与える途中に、また脇の病が出てきたので、まず気をつけさせるために、本薬ではないけれども、蘇香円(気つけ薬)をなめさせるようなものである。仏も最初から本当の法を与えようとなさったが、衆生に相応せず、脇の病が起こるので、多く小乗を説かれたのである。このゆえに本当の法を説かれず、仏経はみなこれ蘇香円の仏法である。それなのに、これを本当の法と心得て、今に誤っている諸宗が多い。ただ禅門だけが良い真薬を相伝している、と。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷中此の事は教乗と合わず。故に久しく大乗の業を修習する者も、知らず識らず。何に況んや声聞・縁覚の諸々の小乗をや。一僧問ふて曰く、教乗と不合ならは、仏は此の事を経中には説きたまはさるや。師曰はく、此の事は教外別伝也。此の意を移さう為めの教也。意を得れは、教経文字をはなれて我に有る事を知る也。故に教にはなき事也。三賢十聖豈に教に通ぜざらんや。此の一事を説けば、三乗も胆戦き、十地も魂驚く。等覚の菩薩は法を説くこと雲の如く雨の如く、不可思議の衆生を度して無生法忍に入らしむるも、尚お喚んで所知愚と作し、道と全く乖く。又何に況んや其の余をや。
-
『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、口にて云ふ処は老子の教も、孔子の教も、昔天竺に発興せし外道の教も、仏道も一つ也。少しも替はる事なし。御坊主達分ち得るや。良有りて曰、諸道皆分別を以て、修し詰めたる処を至極として、分別の外に心の開くると云ふ事を不知、仏祖の道は心の開くる事を本意とす。同じ仏法の中にも、教家には経教の道理を能くすまし窮めたるより外、別の事無しと思ひ、道理の外に意の移つると云ふ事を不知、禅法のみ文字に不依、道理を離れて只意を得る事を本意とす。此道は学文する程、道理に落ちて意に遠く成る也。此故に禅宗には学解を堅く制すると也。
-
『驢鞍橋』卷上然れとも如何にしても代り法門の筋無き事を仏法とし、我宗正伝の仏祖の語録を法度と有る事は余り非道の事に候間、申上ぐる儀也。奥意は此次でに、三百年以来錯り来る所の仏法を御下知に依り、正法に復さんとの所存也。是れは余り笑止千万の体に御坐候。仏も国王大臣有力の檀那に付属すと申し置かれたり。然る間諸宗を集め、聞手を立て、仏法の意趣を御吟味被遊、正理たるべき様に仰付奉頼と云ふへき也。
-
『十善法語』巻第二・不偸盜戒又一類ノ者カ云。釈迦一代ノ経ニ天下国家ヲ治ル道ハナキト。是モ仏法ヲ一向ニ知ラズ。近代ノ談議僧ノ著セシ書ナトヲ見テ。仏教ノ様ニ意得テ云フ言葉シヤ。大乗経ニモ小乗経ニモ国王大臣ノ為ニハ国家ヲ治ル法カ有ル。商賈ノ為ニハ財利ヲ用ル法アル。乃至女人ノ為ニ其夫ニ事ル道カ有シヤ。勿論仏法ハ出離生死ヲ主トスル故ニ。世間ノ法ハ略説シヤ。出世間無漏正道ハ広説シヤ。広略ノ差ハアレトモ。万国ニ推通シ。古今ニ推通シ。世出世間ニ推通シテ。道トスヘキ道ハ聖教ノ中ニ備テ有ルコトシヤ。
-
夢中問答集・『夢中問答集』教えの大小権実の差別問敎門に大小權實の差別ありと申すはいかなる義ぞや。 答眞實の法理には大小權實の差別なし、しかれども學者の智慧に淺深あるが故に所解の法門にも亦差別あり。法華經に云く、如來の說法は一相一味なれども衆生の性欲ことなるによりて解する所の法門各差別せり。たとへば天より一雨をくだす時諸の草木その根莖枝葉の大小に隨つて潤をうくること差別あるがごとし云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。