驢鞍橋 / 卷上
夜話の次で、去る者或は行脚し或は山居す抔と、樣々我行を自讃す。師呵して曰く、其方左樣にして何事を仕出したぞ、むだ辛勞して詮無き事を耻ぢず、手柄の樣に云ふ。人か大畧にも思ふかと思つて云ふと見えたり。汝か事を入札にさせば、一人でも能く入るゝものあるべからす、我を知らぬ者哉。因に向衆曰く、總して若き衆もよう心得めされよ、人は能く思はぬに自ら慢して、人もよう思ふと思つてたわけを盡す者也。自分を顧みて餘所の笑ひを知るべしと也。
新字:夜話の次で、去る者或は行脚し或は山居す抔と、様々我行を自讃す。師呵して曰く、其方左様にして何事を仕出したぞ、むだ辛労して詮無き事を耻ぢず、手柄の様に云ふ。人か大略にも思ふかと思つて云ふと見えたり。汝か事を入札にさせば、一人でも能く入るゝものあるべからす、我を知らぬ者哉。因に向衆曰く、総して若き衆もよう心得めされよ、人は能く思はぬに自ら慢して、人もよう思ふと思つてたわけを尽す者也。自分を顧みて余所の笑ひを知るべしと也。
書き下し
夜話の次で、去る者或は行脚し或は山居す抔と、様々我行を自讃す。師呵して曰く、其方左様にして何事を仕出したぞ、むだ辛労して詮無き事を耻ぢず、手柄の様に云ふ。人か大略にも思ふかと思つて云ふと見えたり。汝か事を入札にさせば、一人でも能く入るゝものあるべからす、我を知らぬ者哉。因に向衆曰く、総して若き衆もよう心得めされよ、人は能く思はぬに自ら慢して、人もよう思ふと思つてたわけを尽す者也。自分を顧みて余所の笑ひを知るべしと也。
現代語訳
夜話のついでに、ある者が、あるいは行脚し、あるいは山に住むなどと、さまざまに自分の行を自慢した。師は叱って言われた。あなたはそうして何を成し遂げたのか。むだな苦労をして、詮ないことを恥じず、手柄のように言う。人がおおよそでも立派だと思うかと思って言っているように見える。あなたのことを投票させたら、一人でもよく入れる者はいないだろう。自分を知らない者だな。ついでに衆に向かって言われた。おおよそ若い衆もよく心得なさい。人は良く思っていないのに、自ら慢心して、人も良く思っていると思って、たわけを尽くす者である。自分を顧みて、よその笑いを知りなさい、と。
解説

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