驢鞍橋 / 卷下
因に語で曰く、此の前尾州の百姓に信心の念佛者あり、去る時、我に念佛の用心を問ふ。我古へより聞かねども、ちよつと思付て念佛の申しやう五種有りと云て之を示す。第一に功德の念佛と云ふは、經に云ふ、阿字十方三世佛。彌字一切諸菩薩。陀字八萬諸聖敎。皆是阿彌陀佛と也。此の文の心は、阿と云へば、三世十方諸佛に通じ奉り、彌と云へば、一切諸菩薩に通じ奉り、陀と云へば、八萬諸聖敎をよみたるに當るとの義也。如是一切の功德は、此の六字に籠めたると念得して申す念佛也。第二に慚愧懺悔の念佛と云ふは、身心の惡業煩惱を慚愧懺悔して申し盡くす念佛也。第三に截断の念佛と云ふは、念佛の劔を以て、善惡の念共に南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と切拂ふ念佛也。第四に末期の念佛と云ふは、唯今の臨終と思定め、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と死習ふ念佛也。第五に平等の念佛と云ふは、萬事に碍らす、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と、松吹く風と齊しく申す念佛也と云へは、彼者ひしと受け、扨て扨てきび好き念佛哉、とれも入らぬ、我は只截斷の念佛一つ也。是れ一つにて、用は調ひたりと云て悅ふこと限なし。
新字:因に語で曰く、此の前尾州の百姓に信心の念仏者あり、去る時、我に念仏の用心を問ふ。我古へより聞かねども、ちよつと思付て念仏の申しやう五種有りと云て之を示す。第一に功徳の念仏と云ふは、経に云ふ、阿字十方三世仏。弥字一切諸菩薩。陀字八万諸聖教。皆是阿弥陀仏と也。此の文の心は、阿と云へば、三世十方諸仏に通じ奉り、弥と云へば、一切諸菩薩に通じ奉り、陀と云へば、八万諸聖教をよみたるに当るとの義也。如是一切の功徳は、此の六字に籠めたると念得して申す念仏也。第二に慚愧懺悔の念仏と云ふは、身心の悪業煩悩を慚愧懺悔して申し尽くす念仏也。第三に截断の念仏と云ふは、念仏の剣を以て、善悪の念共に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と切払ふ念仏也。第四に末期の念仏と云ふは、唯今の臨終と思定め、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と死習ふ念仏也。第五に平等の念仏と云ふは、万事に碍らす、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、松吹く風と斉しく申す念仏也と云へは、彼者ひしと受け、扨て扨てきび好き念仏哉、とれも入らぬ、我は只截断の念仏一つ也。是れ一つにて、用は調ひたりと云て悅ふこと限なし。
書き下し
因に語で曰く、此の前尾州の百姓に信心の念仏者あり、去る時、我に念仏の用心を問ふ。我古へより聞かねども、ちよつと思付て念仏の申しやう五種有りと云て之を示す。第一に功徳の念仏と云ふは、経に云ふ、阿字十方三世仏。弥字一切諸菩薩。陀字八万諸聖教。皆是阿弥陀仏と也。此の文の心は、阿と云へば、三世十方諸仏に通じ奉り、弥と云へば、一切諸菩薩に通じ奉り、陀と云へば、八万諸聖教をよみたるに当るとの義也。如是一切の功徳は、此の六字に籠めたると念得して申す念仏也。第二に慚愧懺悔の念仏と云ふは、身心の悪業煩悩を慚愧懺悔して申し尽くす念仏也。第三に截断の念仏と云ふは、念仏の剣を以て、善悪の念共に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と切払ふ念仏也。第四に末期の念仏と云ふは、唯今の臨終と思定め、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と死習ふ念仏也。第五に平等の念仏と云ふは、万事に碍らす、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、松吹く風と斉しく申す念仏也と云へは、彼者ひしと受け、扨て扨てきび好き念仏哉、とれも入らぬ、我は只截断の念仏一つ也。是れ一つにて、用は調ひたりと云て悅ふこと限なし。
現代語訳
ついでに語って言われた。以前、尾張の百姓に信心深い念仏者がいた。あるとき、私に念仏の心得を尋ねた。私は昔から聞いたことはないが、ちょっと思いついて、念仏の申し方に五種あると言って、これを示した。第一に功徳の念仏というのは、経に、阿の字は十方三世の仏、弥の字は一切の諸菩薩、陀の字は八万の諸聖教、みなこれ阿弥陀仏、とある。この文の意味は、阿と言えば十方三世の諸仏に通じ、弥と言えば一切の諸菩薩に通じ、陀と言えば八万の聖教を読んだことに当たる、ということである。このように一切の功徳はこの六字に込められていると念じて申す念仏である。第二に慚愧懺悔の念仏というのは、身と心の悪業煩悩を恥じて懺悔し、申し尽くす念仏である。第三に截断の念仏というのは、念仏の剣で、善悪の念をともに、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と切り払う念仏である。第四に末期の念仏というのは、ただ今が臨終だと思い定め、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、死ぬことを習う念仏である。第五に平等の念仏というのは、万事に妨げられず、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、松を吹く風と同じように申す念仏である、と言うと、その者はひしと受け止め、さてさて、きびきびとした良い念仏だな、どれも要らない、私はただ截断の念仏一つだ、これ一つで用は足りた、と言って喜ぶことこの上なかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。
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『驢鞍橋』卷下其後六年程勇に勇んで念仏しけるか、一日、子を近付け、我今日死する間、をりずの玄正に来り給へと云ふ。子不思議に思ひながら、玄正に人を使ふ。玄正来り給へば、彼者かくと語り、今日はこれに御留候へと、さゝき飯抔云ひ付ける。非時過れは、彼者坐を正しくす。子病なくして、何か死せらるべきと思ひなから、父に向ひ、若しも仰せ置かるゝ義候はゞ承り置かんと云ふ。父聞て、六十年たわ言つきたさへあるに、また死たわ言まてつけと云ふかと云て、ぬんとして只有りけり。良有て云ひ置度こと一つ有れとも、聞え知るまいと云ふ子是非に仰せ置き給へと云ふ。父いや夢じやさと云ふ。子誠に夢にて候者哉、親の子のと申すも、夢中に戯れに罷成ると打嘆て挨拶す。父曰く、左様の道理の間の夢に非す、只夢じやさと云て、其儘往生す。我ちよつと造りて示しければ、加様に徳を取りたる者有り。何れも五つの中どれなりとも、縁有る所を取り念仏せらるべし。信力に随ふて心徳有るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上是れは只今其方の心の輪廻するを以て知るべし。善念頓て悪念に成り、悪心も亦善心に成る也。天道より地獄に往き、地獄より天道に往く証拠是れ也。余の悪道を廻る事も如是。此念を離れて不生不滅なるを成仏と云ふ也。如是我と念根を修し尽して、成仏すること也。何として傍より其方の念を休めんや。强く眼を着け、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と命を限りにひた責めに責めて、念根を可尽すべし。総じて大なる悪、及ばさる望は休む物也、されとも兎角なにか有る物也。念根の切尽す事難し。然る間此糞袋を敵にし、念仏を以て申滅すへし。是れ念根を切る修行也。彼者云、然らば此身を離る事と心得て置くべきや。師呵して曰く、心得て置くは悪き也。仏道と云ふは心得て置く事に非す、身心を修し尽す事也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る侍来て念仏の申し様を問ふ。師示して曰く、武士の役義なる間、敵のそなへを造り立て、其中に、一筋に南無阿弥陀仏とは飛籠み、南無阿弥陀仏とは飛籠み、自由自在に入るゝほと、飛籠念仏を申さるべし。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、今時諸方に安く仏法を授くる人多し、我は授くへき物なし。我処に来ての得所には、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を知らるへし。是れを授け申すぞ。然れとも措かるゝ事に非す、一大事なれば、世々生々に於て種を失はず、終に仏果菩提を成せんと思ふ心は、我も强う持つ也。其方抔も只念仏申しに成りめさるべし。法然抔も念仏の外は菩提の為めに成る事を知らすと云ふて、一枚起請二枚起請三枚起請迄書置かれたり。我も此行を能く思ふ、先づ此行には病が著かぬ也。大鐘を胸の中にぐわんぐわんと扣き込んで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と力を出して申すべし。悪業少しも面を出すべからず。如是平生用ひて念を滅す事也。
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『驢鞍橋』卷下又曰く、総而仏道と云ふは、聞て用に立つことに非ず、功を積で徳に至ること也。我念仏の申様を五段に立て、是れを能く心得て念仏申しに成りめされよと云つて、五種の念仏を具に示し給ふ。又曰く、観念なりと用ひめさるべし。一切有為法。如夢幻泡影。如露亦如電と観せよと説き給ふ也。此の心は一切世の中にあらゆることは、皆夢幻泡影露電の如くにて、一つも実なしと観せよとのこと也。誠に実なき露の身哉、只消えぬ間の楽也と有りければ、彼の医者大に信受して去りぬ。