驢鞍橋 / 卷上
師常に念佛を唱ひ給ふ。一日去る長老曰く、昨夜夢に師の念佛を申し給ふを無用と異見申したると見る也。師聞て曰く、夢にまで見玉ふは、我念佛を申すを惡く思召と見えたり。夫れは御意得惡しき故也、我南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と云ふは、放下着放下着と申す也。但し是れ惡しきや。放下着放下着と云ふより南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と云ふは、結句耳に碍るまじきと思ふがいな事と也。
新字:師常に念仏を唱ひ給ふ。一日去る長老曰く、昨夜夢に師の念仏を申し給ふを無用と異見申したると見る也。師聞て曰く、夢にまで見玉ふは、我念仏を申すを悪く思召と見えたり。夫れは御意得悪しき故也、我南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、放下着放下着と申す也。但し是れ悪しきや。放下着放下着と云ふより南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、結句耳に碍るまじきと思ふがいな事と也。
書き下し
師常に念仏を唱ひ給ふ。一日去る長老曰く、昨夜夢に師の念仏を申し給ふを無用と異見申したると見る也。師聞て曰く、夢にまで見玉ふは、我念仏を申すを悪く思召と見えたり。夫れは御意得悪しき故也、我南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、放下着放下着と申す也。但し是れ悪しきや。放下着放下着と云ふより南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云ふは、結句耳に碍るまじきと思ふがいな事と也。
現代語訳
師は常に念仏を唱えておられた。ある日、ある長老が言った。昨夜の夢に、師が念仏を申されるのを、無用だと意見申し上げたのを見ました。師は聞いて言われた。夢にまでご覧になるのは、私が念仏を申すのを悪く思っておられるのだと見える。それはお心得が悪いからだ。私が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言うのは、放下着、放下着(手放せ、手放せ)と申しているのである。ただし、これが悪いだろうか。放下着、放下着と言うより、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言うほうが、かえって耳に障らないと思うのだが、妙なことだ、と。
解説
この章句が説くこと
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