驢鞍橋 / 卷上
一日去る處の小姓兩人來り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是淺き處に身を捨習つて功を盡さは、如何樣の處にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成佛也。
新字:一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
書き下し
一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
現代語訳
ある日、ある所の小姓二人が来て法の要を尋ねた。師は示して言われた。修行というのは、この身から離れることである。まず若い人々は、身を惜しまず主君に奉公するのがよい。このように浅いところで身を捨てることを習って功を尽くせば、どのようなところでも自由に捨てられるだろう。身心から離れることさえできれば、それが成仏である、と。
解説
若い小姓たちに、正三は、特別な修行ではなく、主君への奉公に身を惜しまず尽くせと教える。日々の務めで身を捨てる稽古を積めば、やがてどんな場面でも自由に身を捨てられる、と。職業そのものを修行とする正三の職業即仏行の考えがよく表れている。若い社員が、仕事を自己成長と切り離して考えるのではなく、目の前の務めに身を惜しまず取り組むことが、そのまま心を鍛える修行になる、と読める。
この章句が説くこと
奉公職業即仏行若手身を捨てる務め修行
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下同十九日、御幡下衆何某殿子息来り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の為めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
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『驢鞍橋』卷上一日若き侍両人来り、修行の用心を問ふ。師彼に問て曰く、其方達は何役をめさるゝや、時に一人広間番を仕ると云ふ。師示して曰、狼藉者に於ては縦ひ樊噲張良也とも、八幡通すましと急度ねぢまわして番を作すべし。是れ則ち坐禅也。別に用心有るべからず。亦一人は供番也と云ふ。師示して曰、何者にてもあれうろたへ者、又は逆心の者出来らば、忽ち無手と引組んて指違へんと、急度死を窮め、眼をすゑて供を作すべし。是れ則ち坐禅也。機を抜かして供を成さば、用に立つべからずと也。
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『驢鞍橋』卷下彼人曰く、法の為めに身を捨る上は、何事にかいきあたるべし。師曰く、めたと身を捨るを仏法とは云はす、夫れが成仏ならば、人を頼で頭を切りめされんや。又堀川にも飛込み死するを成仏と云はんや。身を捨つと云ふは、執着を離るゝこと也。執着の機だに離れば、身は有つても碍なし。然ればとて身をうまする事にもあらず。又ゆゑなく身を使ひくつめ、病者に成つてもならぬこと也。その上おつきるを、身を捨つと思はるゝか。おつきるは、却で身の為めに楽を求むると云ふ物也。後世を願ふも、我身の為めに願はずや。身を捨るならば、何で今の奉公を勤めさる、いやなことを作すこそ、身を捨るなれ。殊に修行と云ふは、强き心を以て修することなる間、出家よりは侍よき也。その故は先つ□主を持て機に油断し、常に大小をさし働かし、すわと云はばと云ふ機自ら備はる也。此の機にてさへ用ゐられす、況や出家に成り、機たらりとなつて、何の用に立たんや。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。
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『驢鞍橋』卷下彼人問ふ。僧俗によらず、修行は何で仕るや。師示めして曰く、修行と云ふは、生死を離るへき願力を强く起し、縦ひ無間の底に入ても、此の一念心を失はずして、生々世々をかけて、終に生死を出でんと强く守ること也。此の心强ふても、强ふなければならず、如是守るを信心堅固の大とも、修行者とも云ふ也。なにと其方の道心も此の心か。彼者曰く、さ迄の道心にて候はず、縁に触れては、心乱れかはしく候間、先つ十年ほど江戸を離れてあらんと存する也。師曰く、夫げな心にて。道心と云はるべからず。我は本よりさびじいぞ、やかましいぞと縁に障へらるゝと云ふことを知ずと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。