驢鞍橋 / 卷上
文字にて云ふ事は惡敷事なれども、念佛を初心に思はるる間申すへし、念佛の二字は佛を思ふとかく也。常に佛を思ふ人有るへからず、皆娑婆思ひなるへし。娑婆を思ふ心は皆惡道の種也。今其方の心の惡道に輪廻するを以て知るべし。心の强き時も有り、弱き時も有り、嗔る時もあり、欲をかく時も有り、ねたみそねむ時もあり、如是惡道ずきにて、此中を廻りて、人間道にも居る事有るへからず。縱ひ亦天上の善果を得たりと云ふとも、頓て地獄に落つる也。其故は今善心少しの間、起れども、頓て惡心に成る也。兎角念根を切らずんば輪廻を免かるゝ事有るへからず。隨分念佛して諸念を盡すべし。纔も念殘れば、其念の世界に生を受くる也。
新字:文字にて云ふ事は悪敷事なれども、念仏を初心に思はるる間申すへし、念仏の二字は仏を思ふとかく也。常に仏を思ふ人有るへからず、皆娑婆思ひなるへし。娑婆を思ふ心は皆悪道の種也。今其方の心の悪道に輪廻するを以て知るべし。心の强き時も有り、弱き時も有り、嗔る時もあり、欲をかく時も有り、ねたみそねむ時もあり、如是悪道ずきにて、此中を廻りて、人間道にも居る事有るへからず。縦ひ亦天上の善果を得たりと云ふとも、頓て地獄に落つる也。其故は今善心少しの間、起れども、頓て悪心に成る也。兎角念根を切らずんば輪廻を免かるゝ事有るへからず。随分念仏して諸念を尽すべし。纔も念残れば、其念の世界に生を受くる也。
書き下し
文字にて云ふ事は悪敷事なれども、念仏を初心に思はるる間申すへし、念仏の二字は仏を思ふとかく也。常に仏を思ふ人有るへからず、皆娑婆思ひなるへし。娑婆を思ふ心は皆悪道の種也。今其方の心の悪道に輪廻するを以て知るべし。心の强き時も有り、弱き時も有り、嗔る時もあり、欲をかく時も有り、ねたみそねむ時もあり、如是悪道ずきにて、此中を廻りて、人間道にも居る事有るへからず。縦ひ亦天上の善果を得たりと云ふとも、頓て地獄に落つる也。其故は今善心少しの間、起れども、頓て悪心に成る也。兎角念根を切らずんば輪廻を免かるゝ事有るへからず。随分念仏して諸念を尽すべし。纔も念残れば、其念の世界に生を受くる也。
現代語訳
文字で言うのは悪いことだけれども、念仏を初心のことと思っておられるだろうから申そう。念仏の二字は、仏を念ずると書く。常に仏を念じている人はいないだろう。みな娑婆を念じているのだろう。娑婆を思う心は、みな悪道の種である。今あなたの心が悪道に輪廻していることで知りなさい。心の強いときもあり、弱いときもあり、怒るときもあり、欲をかくときもあり、妬み嫉むときもある。このように悪道が好きで、この中を巡って、人間道にさえいることはないだろう。たとえまた天上の善い果報を得たとしても、やがて地獄に落ちる。そのわけは、今善い心が少しの間起こっても、やがて悪い心になるからだ。とにかく思いの根を切らなければ、輪廻を免れることはない。十分に念仏して、諸々の思いを尽くしなさい。わずかでも思いが残れば、その思いの世界に生を受けるのである。
解説
この章句が説くこと
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『驢鞍橋』卷上是れは只今其方の心の輪廻するを以て知るべし。善念頓て悪念に成り、悪心も亦善心に成る也。天道より地獄に往き、地獄より天道に往く証拠是れ也。余の悪道を廻る事も如是。此念を離れて不生不滅なるを成仏と云ふ也。如是我と念根を修し尽して、成仏すること也。何として傍より其方の念を休めんや。强く眼を着け、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と命を限りにひた責めに責めて、念根を可尽すべし。総じて大なる悪、及ばさる望は休む物也、されとも兎角なにか有る物也。念根の切尽す事難し。然る間此糞袋を敵にし、念仏を以て申滅すへし。是れ念根を切る修行也。彼者云、然らば此身を離る事と心得て置くべきや。師呵して曰く、心得て置くは悪き也。仏道と云ふは心得て置く事に非す、身心を修し尽す事也。
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『驢鞍橋』卷上又彼者、悪心休み欲心抔なしと云ふ。師曰、少しの処収りぬれば、是となし居る物也。何程無欲に成り、人好く成りたりとも、此娑婆を楽む念、又我身を思ふ念は休むへからす。是れを離れすんば皆是れ輪廻の業也。是念を滅するには、身心は是れ怨家なりときつと睨詰めて、念仏を以て責滅すばかり也。別に道理の入る事にも非ず、智恵の入る事にも非す、人を頼みて成仏する事にも非す、人の引て地獄へ落すにも非す、地獄へも天道へも只今の念が引て往く也。瞋恚は地獄、欲心は餓鬼、愚癡は畜生、是れを三悪道と云ふ也。此上に修羅人間天上の三善道を加へて、六道と云ふ也。皆是れ一心の内に有る六道也。此間を離れす、上に登り、下に下り、廻り休まさるを六道輪廻と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。
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『驢鞍橋』卷上夜話の次てに去る僧云、町を通り見れば、用も無き物をちよつとほしいものかなと思ふ心出づる也。師曰、夫れは餓鬼道に久しく在りし習気なるべし。時に又一人在り曰、某も随分此心を滅せんと仕れ共、なにとしても失はず。師曰、其心にさからうべからず、唯一筋に念仏せらるへし。念仏の功積らば、万事は自ら失ふへしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成仏と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。総而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
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『驢鞍橋』卷下其方抔、今の念の形、面に出したらば、如何様なる形ならんと思はるゝや、大略皆蛇の体計なるべし、浅ましきことに非ずや。然る間無念千万なること哉と、慚愧懺悔して力を出し、奥牙を咬み、拳を握て胸を扣き、身をつねり、憎い糞袋め哉と睨付て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すべし。少しも油断せば、我地獄は措き、あの女は善の悪の、誰れは憎い愛いと余所の妄想まで取り来り、胸の中に取込んて、我地獄と成る物也。返へす返へす願力强く起し、善悪ともに一念も胸に留めじと、五臓六腑を吐出して念仏申さるべし。