驢鞍橋 / 卷下
夜話に曰く、何と勤めても、無我に成れぬ物也。何れも修して見て、合點せらるべし。爰に一つ取代物有るを以て、我は少し無我に成りたると覺ゆ。只人を能くしたい能くしたいと强く思ふ計にて、我を忘れたりと也。
新字:夜話に曰く、何と勤めても、無我に成れぬ物也。何れも修して見て、合点せらるべし。爰に一つ取代物有るを以て、我は少し無我に成りたると覚ゆ。只人を能くしたい能くしたいと强く思ふ計にて、我を忘れたりと也。
書き下し
夜話に曰く、何と勤めても、無我に成れぬ物也。何れも修して見て、合点せらるべし。爰に一つ取代物有るを以て、我は少し無我に成りたると覚ゆ。只人を能くしたい能くしたいと强く思ふ計にて、我を忘れたりと也。
現代語訳
夜話で言われた。どう勤めても、無我にはなれないものである。誰でも修めてみて、合点されるがよい。ここに一つ取り替え物があるから、私は少し無我になったと感じる。ただ、人を良くしたい、良くしたい、と強く思うばかりで、自分を忘れたのである、と。
解説
どれほど修行しても無我にはなれない、と正三は率直に言う。それでも自分が少し無我に近づけたのは、ただ人を良くしたい、良くしたいと強く思うことで、自分のことを忘れていたからだ、と。自我を消そうと努力しても消えないが、他者のために心を尽くすうちに、いつの間にか自分を忘れている。自分を捨てる近道は、自分と格闘することではなく、人のために打ち込むことだという、深く温かい実感の言葉である。
この章句が説くこと
無我利他自分を忘れる人のため晩年実感
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、利他の行も自利の行も、たゞ劣なる方を捨てゝ勝なる方をとらば、大士の善行なるべし、老病を扶けんとて水菽の孝をいたすは、只今生暫時の妄愛、迷情の喜びばかりなり、迷情の有為に背きて無為の道を学せんは、設ひ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝縁と成べし、是を思へ是を思へ、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一仏菩薩は人の来て請ふときは、身肉手足をも截れり、況や人来て一通の状をこはんに、名聞計りを思ふて其の事を聞かぬは是れ我執深きなり、人々ひじりならず、非分の事を云ふ人かなと、所詮なく思ふとも、我は名聞をすてゝ一分の人の利益とならば、真実の道に相応すべきなり、古人も其の義あるかと見ゆること多し、我も其の義を思ふて、少々檀那知音の思ひかけざる事を、人に申伝べて給はれと云事をば、文一通遣りて一分の利益を作すは易きことなり、
-
老子 第7章天長く地久なり。天地の以て長且つ久しう能くする者は、以て其の自ら生ぜざるを以てなり。是を以て聖人は其の身を後(のち)にして身先(せん)し、其の身を外にして身存す。非ざるか其の無私なるや。故に能く其の私を成す。
-
『正法眼蔵随聞記』巻五時に装問て云く、真実求法の為には、有為の父母師匠の思愛の障縁を一向にすつべき道理はまことに然かあるべし、但し父母師匠の恩愛等のかたは一向に捨離すとも、亦菩薩の行を存せん時は、自利をさしおきて利他を先とすべきか、然あるに老師重病切にして、亦他人のたすくべきもなく、幸に保護の我れ一人其の仁に当りたるを、自らの修行ばかりを思ひて、渠を扶けずんば、菩薩の行に背けるに似たるか、たゞ大士の善行をきらふべからず、縁に随ひ事に触れて仏法を存すべきか、もしこれらの道理によらば、亦止りてたすくべきか、何ぞ独り求法を思ひて老病の師を扶けざるや、いかん、
-
『正法眼蔵随聞記』巻三此の心を存ぜんと思はヾまづ無常を思ふべし、一期は夢の如し、光陰は早く移る、露の命は消ね易し、時は人を待ざるならひなれば、只しばらく存じたるほど聊かのことにつけても、人の為によく仏意に順はんと思ふべきなり、
-
『驢鞍橋』卷下夜話の次に曰く、我若き時より、総而言句を持たざる性也。今に仏法を持たす。尤も世事のことは、名聞を始め、胸中一物もなし。是に仍て人に逢ふても話すべきことなし。只によんとして、居る計也。人持ち来れば、応対事欠かす、我身より工み出して云ふべきことを持たす。乍去仏法のすべを直し度思ふと、人を能く成し度と思ふ念は强く有る也。此の外には他事なしと也。