驢鞍橋 / 卷下
縱ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見處迄も打捨て、本に歸りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の變も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か氣違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加樣に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚輕ても爲て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
新字:縦ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見処迄も打捨て、本に帰りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の変も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か気違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加様に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚軽ても為て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
書き下し
縦ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見処迄も打捨て、本に帰りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の変も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か気違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加様に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚軽ても為て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
現代語訳
たとえ見性の人といっても、このような違いがある。そのうえ私も、右のように段々のことが移るほど修め詰め、見処までも打ち捨てて、元に帰っては修め修めしたけれども、今もこの糞袋は惜しいのである。あなたも今から出家して、八十まで修めてみなさい。何の変わりもないものだぞ。だから、剃っても気違い、剃らなくても気違い、と思って剃るのなら、剃りなさい。剃ったらよくなるだろうと思って剃れば、大いに違うだろう。何の変わったこともないはずである。もし変わることがあれば、天狗か気違いだろう。その人はしばらくして言った。今日まではこのように存じておりましたが、後でまた出家を遂げなければ、妙なものでしょう。師は言われた。先ほどからの言い分が、一つとして切れたことがない。後で還俗するなら、足軽にでもなって過ごしなさい。後でどうなったら、誰が何と言うだろう、などと思うのは、切れない心である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下彼人思ひ入たる道理計りを云つて聞きうけす、無理に剃髪を乞ふ。師曰く、夫れならば力及はす、其方次第也。我処にては、総して出家させず、何方にても剃りめされんず迄よ。夫れはともあれ、後にいきあたりめさるゝな。今云つて聞かせ申すぞ。御公儀より御穿鑿あらん時、別に云分有るへからす。某世間いやに御座有るに仍て、此の体に罷り成る也。曲事に思召さば、御成敗有るべしと云つて罷出て、腹切らんと思定めめさればすらるべし、是れ一つ。又出家しても食はでもならず、着でもならず、草履鼻紙も使はでならず、何としても一年に金三両ほどは入らんずと思ひめされよ。不観にひよつとすつて後、餓鬼に成りめさるゝな。覚悟有らばすりめされよ。寺に入り大事の施物を食ふも非義也。又親類衆纔かの知行を以て、世間を間に合はせて行かんとするを貪らんと思ふも比興也。夫れよりは此の身を主君に抛て、奉公して食ひたるかよき也。総而片ふしんに思にならぬ物也。我と自分過きするやうにする物也。是れ一つ。右の旨覚らば、御辺次第也。後に行当りめさるゝな。
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『驢鞍橋』卷上一日去る若き僧の志有りて、望を休したるに向て曰く、まだいかなる大難にも逢はんずか、幾年を送らん事大儀也。乍去望を離れよくは仕為し来れり、なにとぞ次第に募らせたし、まだ末しれぬ事也。心元なし。旨少し違ひて志失せれば、娑婆に責められ、忽ち苦を受くる物也。兎角後世願ひの中を離れざるが好き也。亦やゝ有りて自ら身を叩へて曰、扨も何の用にも立たぬ物哉物哉と也。
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『驢鞍橋』卷上一日近比の遁世者に示して曰く、如何様なる者も頭をすれば、早打上つて人に貴はれ、殊勝に成り、売僧に成り、徳有る御坊主の振をする也。今時の道心者皆此つれ計り也。其方も我法によらんと思はゞ、一向の土に成り、謙つて向上に眼を著けす、足元より修すべし。なまけた振をし、さも無き事を鼻に上げてありかんと思はゞ、出入無用也。
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『驢鞍橋』卷下同十九日、御幡下衆何某殿子息来り剃髪を乞ふ。師聞て曰く、我元より家職を捨て法を求むると嫌ひ也。殊に侍のおつきる抔は、かじけた心也。修行の為めには奉公に過きたるはなし。出家しては、却て地獄を作らるべし。奉公則ち修行なりと再三示し給ふ。
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『驢鞍橋』卷下夜話の次で、一貫此頃、修行少しだるみたると云ふ。師云く、夫れは我知らぬこと也。我はじりじりとたゞ物次第强に强まり、終に六十余にして、莫妄想の意不図と乗りたり。只其時は、莫妄想莫妄想と躍つて有り度心にて有り、実に頸を切らるゝとも、に成て居さうに有りし也。然れとも打捨て、自己に取て還し、様々こね来れども、今に糞袋の秘蔵の念は休ます。扨ても実と云ふ物は深き物哉と也。
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『驢鞍橋』卷下彼人曰く、法の為めに身を捨る上は、何事にかいきあたるべし。師曰く、めたと身を捨るを仏法とは云はす、夫れが成仏ならば、人を頼で頭を切りめされんや。又堀川にも飛込み死するを成仏と云はんや。身を捨つと云ふは、執着を離るゝこと也。執着の機だに離れば、身は有つても碍なし。然ればとて身をうまする事にもあらず。又ゆゑなく身を使ひくつめ、病者に成つてもならぬこと也。その上おつきるを、身を捨つと思はるゝか。おつきるは、却で身の為めに楽を求むると云ふ物也。後世を願ふも、我身の為めに願はずや。身を捨るならば、何で今の奉公を勤めさる、いやなことを作すこそ、身を捨るなれ。殊に修行と云ふは、强き心を以て修することなる間、出家よりは侍よき也。その故は先つ□主を持て機に油断し、常に大小をさし働かし、すわと云はばと云ふ機自ら備はる也。此の機にてさへ用ゐられす、況や出家に成り、機たらりとなつて、何の用に立たんや。