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驢鞍橋 / 卷下

師又曰く、懺悔の爲め一一得所を伸べらるべし。彼人曰く、五蘊皆空の道理を心得候也。師曰く、其は古人の心也。其方の心に非す。なにが大聖人の心を仰せ置かれるを取來て、我物の樣に云ふことも、惡凡夫心にて夫れが使はるゝことか。實に本來空体に至りなば使はるべし。其方の心は、何も彼も有ではをりないか。只敎へ申すぞ。一切の習ひ事、佛法妄想を吐出して、念佛申すに成りめさるべし。彼人又曰く、久しく坐禪を致しければ、光明少し眼前にあり。無得老に此の由申しければ、法身の光と云ふ物也。いよいよ勢を出さば、光滿身に備はるべしと申されたり。出家しては、是れを長養仕らんと存する也。師曰く、扨てこそ大いに錯りめされたり。その光は機のへりより出ること也。是れを是とめされば、頓て機違に成りめさるへし。何と機のへりたる覺なしや。彼人曰く、中々機へりて候。摺鉢にて物摺音、胸に響き忍はれす。師曰く、夫れ御覽せよ、でかい機のへりやうではをりないか、まだ好い時也。早や早や捨てめされよ。扨ても無得てやならんは、あぶない人哉、是れ聞きし人也。此比も、濟家僧の十八九になる人を見性の人とて尊はる由聞き及ふ。左樣に輙く悟道する物ならば、我も早や佛菩薩にも成るべし。若きより心懸け、胸中もゆるやうに大事起り、八十迄修すれども、隙は明かぬ也。左樣の人を尊ふ位にては、無得の佛法も知れたり。今時そのつれの道者多し、縱ひ見解有りても、若い佛法者は、貴くも存せぬ也。修行輙く熟する物に非す、我慥に是れを知る也。

新字:師又曰く、懺悔の為め一一得所を伸べらるべし。彼人曰く、五蘊皆空の道理を心得候也。師曰く、其は古人の心也。其方の心に非す。なにが大聖人の心を仰せ置かれるを取来て、我物の様に云ふことも、悪凡夫心にて夫れが使はるゝことか。実に本来空体に至りなば使はるべし。其方の心は、何も彼も有ではをりないか。只教へ申すぞ。一切の習ひ事、仏法妄想を吐出して、念仏申すに成りめさるべし。彼人又曰く、久しく坐禅を致しければ、光明少し眼前にあり。無得老に此の由申しければ、法身の光と云ふ物也。いよいよ勢を出さば、光満身に備はるべしと申されたり。出家しては、是れを長養仕らんと存する也。師曰く、扨てこそ大いに錯りめされたり。その光は機のへりより出ること也。是れを是とめされば、頓て機違に成りめさるへし。何と機のへりたる覚なしや。彼人曰く、中々機へりて候。摺鉢にて物摺音、胸に響き忍はれす。師曰く、夫れ御覧せよ、でかい機のへりやうではをりないか、まだ好い時也。早や早や捨てめされよ。扨ても無得てやならんは、あぶない人哉、是れ聞きし人也。此比も、済家僧の十八九になる人を見性の人とて尊はる由聞き及ふ。左様に輙く悟道する物ならば、我も早や仏菩薩にも成るべし。若きより心懸け、胸中もゆるやうに大事起り、八十迄修すれども、隙は明かぬ也。左様の人を尊ふ位にては、無得の仏法も知れたり。今時そのつれの道者多し、縦ひ見解有りても、若い仏法者は、貴くも存せぬ也。修行輙く熟する物に非す、我慥に是れを知る也。

書き下し

師又曰く、懺悔の為め一一得所を伸べらるべし。彼人曰く、五蘊皆空の道理を心得候也。師曰く、其は古人の心也。其方の心に非す。なにが大聖人の心を仰せ置かれるを取来て、我物の様に云ふことも、悪凡夫心にて夫れが使はるゝことか。実に本来空体に至りなば使はるべし。其方の心は、何も彼も有ではをりないか。只教へ申すぞ。一切の習ひ事、仏法妄想を吐出して、念仏申すに成りめさるべし。彼人又曰く、久しく坐禅を致しければ、光明少し眼前にあり。無得老に此の由申しければ、法身の光と云ふ物也。いよいよ勢を出さば、光満身に備はるべしと申されたり。出家しては、是れを長養仕らんと存する也。師曰く、扨てこそ大いに錯りめされたり。その光は機のへりより出ること也。是れを是とめされば、頓て機違に成りめさるへし。何と機のへりたる覚なしや。彼人曰く、中々機へりて候。摺鉢にて物摺音、胸に響き忍はれす。師曰く、夫れ御覧せよ、でかい機のへりやうではをりないか、まだ好い時也。早や早や捨てめされよ。扨ても無得てやならんは、あぶない人哉、是れ聞きし人也。此比も、済家僧の十八九になる人を見性の人とて尊はる由聞き及ふ。左様に輙く悟道する物ならば、我も早や仏菩薩にも成るべし。若きより心懸け、胸中もゆるやうに大事起り、八十迄修すれども、隙は明かぬ也。左様の人を尊ふ位にては、無得の仏法も知れたり。今時そのつれの道者多し、縦ひ見解有りても、若い仏法者は、貴くも存せぬ也。修行輙く熟する物に非す、我慥に是れを知る也。

現代語訳

師はまた言われた。懺悔のために、一つ一つ得たところを述べなさい。その人は言った。五蘊皆空の道理を心得ております。師は言われた。それは古人の心である。あなたの心ではない。どうして大聖人の心を仰せ置かれたのを取ってきて、自分のもののように言うのか。悪い凡夫の心で、それが使えるものか。本当に本来空の体に至ったなら使えるだろう。あなたの心は、何もかも有ではないか。ただ教えてあげよう。一切の習い事、仏法、妄想を吐き出して、念仏を申す人になりなさい。その人はまた言った。長く坐禅をしたので、光明が少し眼前にあります。無得老師にこのことを申したところ、法身の光というものだ、いよいよ精を出せば、光が全身に備わるだろう、と申されました。出家したら、これを育てようと存じます。師は言われた。さてこそ、大いに誤られた。その光は気迫が減ったところから出ることである。これをよしとされるなら、やがて気が違ってしまうだろう。どうだ、気迫が減った覚えはないか。その人は言った。なるほど気迫が減っております。すり鉢で物をする音が胸に響いて耐えられません。師は言われた。それご覧なさい。ひどい気迫の減り方ではないか。まだ間に合う時である。早く早く捨てなさい。さても、無得に教えを受けるのは危ない人だな。これは聞いた人である。近ごろも、臨済宗の僧で十八、九になる人を見性の人だと尊ばれていると聞き及ぶ。そのようにたやすく悟道するものなら、私も早く仏菩薩になっているだろう。若いときから心がけ、胸の中が燃えるように大事が起こり、八十まで修めても、暇は明かないのである。そのような人を尊ぶ程度では、無得の仏法も知れたものだ。今どき、その類の道者が多い。たとえ見解があっても、若い仏法者は尊いとも思わない。修行はたやすく熟するものではない。私は確かにこれを知っている。

解説

得たものを述べよと言われた若者は、五蘊皆空の道理を心得たと言う。正三は、それは古人の心で、お前の心ではない、と退ける。さらに、坐禅で光が見え、師に法身の光だと言われた、と語る若者に、それは気力が減った兆しだ、すり鉢の音が胸に響くほど神経が過敏になっているではないか、早く捨てよ、と警告する。若くして悟ったと持ち上げられる者の危うさと、自分は八十まで修めてもまだ終わらない、という実感が対比される。

この章句が説くこと

見解禅病光明過敏早熟修行の年月

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