驢鞍橋 / 卷下
因に人問ふ、神秀大師の眞性の偈は、邪見なりや。師曰く、自性を見たる偈には非ず。然れども修行の指南には宜し。又問ふ、乍去師の嫌ひ玉ふ處の實有の念を以て修すること□生れなから無漏心の人有るべからず。心を以て心を拭つては捨て捨てするより外なし、但し其の內念に戰て妄想からかひするは錯也。只勇猛心を以て善惡の心共に打拂ひ打拂ひぬんと用ふべき也。○いかき性とは、關山和尙堂もりし時、もりを持來れと有けれは、人の小僧ちやつといかきを持來てもりにすく。關山之を見て、法器なりと褒め給ふこと也。
新字:因に人問ふ、神秀大師の真性の偈は、邪見なりや。師曰く、自性を見たる偈には非ず。然れども修行の指南には宜し。又問ふ、乍去師の嫌ひ玉ふ処の実有の念を以て修すること□生れなから無漏心の人有るべからず。心を以て心を拭つては捨て捨てするより外なし、但し其の内念に戦て妄想からかひするは錯也。只勇猛心を以て善悪の心共に打払ひ打払ひぬんと用ふべき也。○いかき性とは、関山和尚堂もりし時、もりを持来れと有けれは、人の小僧ちやつといかきを持来てもりにすく。関山之を見て、法器なりと褒め給ふこと也。
書き下し
因に人問ふ、神秀大師の真性の偈は、邪見なりや。師曰く、自性を見たる偈には非ず。然れども修行の指南には宜し。又問ふ、乍去師の嫌ひ玉ふ処の実有の念を以て修すること□生れなから無漏心の人有るべからず。心を以て心を拭つては捨て捨てするより外なし、但し其の内念に戦て妄想からかひするは錯也。只勇猛心を以て善悪の心共に打払ひ打払ひぬんと用ふべき也。○いかき性とは、関山和尚堂もりし時、もりを持来れと有けれは、人の小僧ちやつといかきを持来てもりにすく。関山之を見て、法器なりと褒め給ふこと也。
現代語訳
ついでに人が尋ねた。神秀大師の真性の偈は、邪見でしょうか。師は言われた。自性を見た偈ではない。けれども修行の指南としてはよい。また尋ねた。とはいえ、師が嫌われる実有の念で修めることは□生まれながら無漏の心の人はいないだろう。心で心を拭っては捨て、拭っては捨てするより外はない。ただし、その内で念と戦って妄想とからかい合うのは誤りである。ただ勇猛心によって、善悪の心をともに打ち払い打ち払い、ゆったりと用いなさい。○いかき性というのは、関山和尚が堂守りをしていたとき、もり(盛り)を持って来い、と言われたので、ある人の小僧がさっとざるを持ってきて盛りに掬った。関山はこれを見て、法器だと褒められたことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷下同十八日、去る俗士来り、某今迄終に仏法承らす、油断者也と云つて法要を問ふ。師曰く、何くにても聞きめされぬか仕合也。若し聞きめされたらば、疾く悟て隙を明けめさるべし。総而聞きて合点して置くことに非す。只修し行して、少し宛も心の垢を抜くこと也。暗心も明く成り、弱心も强く成る様に修すること、先つ大すべを心得めされよと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷下縦ひ見性の人といふとも、如是諸訛有り。その上我も右の如く段々のこと移る程修しつめ、見処迄も打捨て、本に帰りては修し修し仕りけれども、今に此の糞袋は惜き也。其方も今より出家して八十迄修して見られよ。何の変も無き物ぞ。然る間、剃ても機違、すらでも機違と思ふてすらば、剃りめされよ。剃りたらはよからんと思ふてすられば、大きに差ふべし。何の替りたることも有るべからず。若し替ることあらば、天狗か気違なるべし。彼人良有て云ふ、今日迄は加様に存候が、後又出家を遂けずんば、いな物なるべし。師曰く、先よりの云分一つとして切れたることなし。後還俗せば、脚軽ても為て過きめされよ。後何と成りたらは、誰か何と云はん抔と思ふは切れぬ心也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、生付て無漏に近き性と、有漏の强い性あり。関山の褒め給ふ如く、いかき性は、生付て無漏に近き性也。何として分別し回つて、丈夫に物を仕損せぬやうな機は、実の强き性也。なにほど真実ありても、実の失すまじき性哉と思はるゝ生付もあるもの也。