驢鞍橋 / 卷上
又曰く、總して羅漢等に至る迄機を付けて見るべし、機の拔けたる佛像あるべからす。皆眼すわつて活きた形計り也。毘沙門のあまのじやくを蹈付け給ふ處は、自己を睨付けて守る位也。扨韋駄天抔も急度つまつた處を造りたるは、能き造り樣、庫裡の本尊とも云ふべき像也。大形佛像は見ゆるが大黒計り指して面白くも思はず、定めて樣子有るべしと也。
新字:又曰く、総して羅漢等に至る迄機を付けて見るべし、機の抜けたる仏像あるべからす。皆眼すわつて活きた形計り也。毘沙門のあまのじやくを蹈付け給ふ処は、自己を睨付けて守る位也。扨韋駄天抔も急度つまつた処を造りたるは、能き造り様、庫裡の本尊とも云ふべき像也。大形仏像は見ゆるが大黒計り指して面白くも思はず、定めて様子有るべしと也。
書き下し
又曰く、総して羅漢等に至る迄機を付けて見るべし、機の抜けたる仏像あるべからす。皆眼すわつて活きた形計り也。毘沙門のあまのじやくを蹈付け給ふ処は、自己を睨付けて守る位也。扨韋駄天抔も急度つまつた処を造りたるは、能き造り様、庫裡の本尊とも云ふべき像也。大形仏像は見ゆるが大黒計り指して面白くも思はず、定めて様子有るべしと也。
現代語訳
また言われた。おおよそ羅漢などに至るまで、気迫をつけて見なさい。気迫の抜けた仏像はないはずである。みな目が据わって、生きた形ばかりである。毘沙門天が天邪鬼を踏みつけておられるところは、自己を睨みつけて守る位である。さて、韋駄天なども、きっと詰まったところを造ったのは、良い造り方で、庫裡の本尊とも言うべき像である。たいていの仏像は見えるが、大黒だけはさして面白くも思わない。きっと何かわけがあるのだろう、と。
解説
羅漢に至るまで、気迫の抜けた仏像はない、みな目が据わって生きている、と正三は言う。毘沙門天の天邪鬼を踏む姿は自己を睨みつけて守る姿、台所を守る韋駄天の張りつめた姿も良い、と一つ一つ読み解く。一方、大黒天だけは面白く思えない、何か理由があるのだろう、と正直に言う。分かったふりをせず、分からないものは分からないと保留する姿勢も含めて、仏像を心の手本として真剣に見る目が表れている。
この章句が説くこと
仏像毘沙門天韋駄天観察手本正直
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