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驢鞍橋 / 卷上

一日去る和尙來り云ふ、某久しく坐禪仕れども、妄想少しも不止、何れもは如何候や。師聞て曰く、夫れは止修行そうに存する也。縱ひ止んでも用に立つ事に非ず、心の修する位を御存しなそうなと也。

新字:一日去る和尚来り云ふ、某久しく坐禅仕れども、妄想少しも不止、何れもは如何候や。師聞て曰く、夫れは止修行そうに存する也。縦ひ止んでも用に立つ事に非ず、心の修する位を御存しなそうなと也。

書き下し

一日去る和尚来り云ふ、某久しく坐禅仕れども、妄想少しも不止、何れもは如何候や。師聞て曰く、夫れは止修行そうに存する也。縦ひ止んでも用に立つ事に非ず、心の修する位を御存しなそうなと也。

現代語訳

ある日、ある和尚が来て言った。私は長く坐禅をしておりますが、妄想が少しも止みません。皆さんはどうですか。師は聞いて言われた。それは止める修行をしておられるようだ。たとえ止んでも、役に立つことではない。心を修める位をご存じないようだ、と。

解説

長年坐禅をしても妄想が止まないと悩む和尚に、正三は、妄想を止めることを目的にしているのが誤りだ、止めても何の役にも立たない、と答える。坐禅は妄想を消す技術ではなく、心を修めて使いこなす修行だからだ。雑念をなくすことに躍起になるほど、かえって雑念にとらわれる。心を静めること自体を目的化せず、何のために心を整えるのかを見失うな、という教えは、瞑想の実践者にも示唆を与える。

この章句が説くこと

妄想坐禅目的化雑念修行方向性

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