驢鞍橋 / 卷上
一日僧問ふ、十二神と二王の機に諸訛有りや。師答て曰く、二王は只一方向きに用ゐた心の位也。十二神は夫れよりおとなしゝ、少し熟したる心の位也。菩薩像如來像の段々は、次第に熟して心の使はるゝ位也。十二神の十二支を頂き給ふは、十二時修行の躰也。四天王はあまのじやくを蹈み付けて居給ふ。我等は頭に頂いて居る也。因に曰、何れも佛像は何より出たると思ふや。皆佛心より出たり。佛の其時其時の我心を像に顯はし、名を付けて示し給ふ也。
新字:一日僧問ふ、十二神と二王の機に諸訛有りや。師答て曰く、二王は只一方向きに用ゐた心の位也。十二神は夫れよりおとなしゝ、少し熟したる心の位也。菩薩像如来像の段々は、次第に熟して心の使はるゝ位也。十二神の十二支を頂き給ふは、十二時修行の体也。四天王はあまのじやくを蹈み付けて居給ふ。我等は頭に頂いて居る也。因に曰、何れも仏像は何より出たると思ふや。皆仏心より出たり。仏の其時其時の我心を像に顕はし、名を付けて示し給ふ也。
書き下し
一日僧問ふ、十二神と二王の機に諸訛有りや。師答て曰く、二王は只一方向きに用ゐた心の位也。十二神は夫れよりおとなしゝ、少し熟したる心の位也。菩薩像如来像の段々は、次第に熟して心の使はるゝ位也。十二神の十二支を頂き給ふは、十二時修行の体也。四天王はあまのじやくを蹈み付けて居給ふ。我等は頭に頂いて居る也。因に曰、何れも仏像は何より出たると思ふや。皆仏心より出たり。仏の其時其時の我心を像に顕はし、名を付けて示し給ふ也。
現代語訳
ある日、僧が尋ねた。十二神と仁王の気迫に違いがありますか。師は答えて言われた。仁王はただ一方向きに用いた心の位である。十二神はそれよりおとなしい、少し熟した心の位である。菩薩像や如来像の段々は、次第に熟して心が使いこなされる位である。十二神が十二支を戴いておられるのは、十二の時刻の修行の体である。四天王は天邪鬼を踏みつけておられる。我らは頭に戴いている。ついでに言われた。誰でも、仏像は何から出てきたと思うか。みな仏の心から出てきたのである。仏がその時その時の自分の心を像に表し、名を付けて示されたのである、と。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、凡夫元より物に碍らずして、ぬんとしたる如来心有れども、六賊煩悩に責め失はれて居る也。然る間二王心を以て六賊煩悩を防ぐときんば、自ら本心はそだつ也。譬へば下馬には棒つき有り、内には広間番、段々の番所ありて、堅く守護し奉れば、君自ら大平に在すが如し。二王は是れ如来の足軽坐禅也。先づ此足軽坐禅をよう仕習ひめされよ。扨亦坐敷には十六善神。四天王、段々の本心の守護神有り、亦十二神は頭に十二支を頂き給ふ、是れ十二時の番衆也。如是十二時中强く守るときんば、煩悩消滅して、本尊自ら堅固也。此機を受けすして煩悩に勝つ事有るべからす。此仏像の道理計りは是非に御公儀へ申上け度く思ふ也。云はるゝ物ならは幽霊に成りてなりとも云ひ度く思ふと也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏像建立の趣を見るに、門に金剛の形像を立置き、坐敷には十二神、十六善神、八金剛、四天王、五大尊、各々威勢を振ひ、物の具を着し、鋒刀杖弓矢を持て双ひ在す、此の意に徹せすして修行する人は、六賊煩悩を治すること難し。修行疎にして、此の意に至るへからす。願はくは仏像に眼を著て、修行し給へかしとの念願也、と云ふは、仏像の位を能く見て、あの機を受け、是れを手本と成して修せよとの念願也。此の意を受けすして煩悩を滅すること有るへからす。去りなから此の段計は我機になけれは、沙汰には云ひ聞かせ難し、習ひ事にして末々にて錯り多かるへし。只我と機に受くへき也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。仏像と云ふは、初心の人如来像に眼を著けて如来坐禅は及ぶべからす、只二王不動の像等に眼を著けて二王坐禅を作すへし。先づ二王は仏法の入口、不動は仏の始めと覚えたり。然れはこそ二王は門に立ち、不動は十三仏の始めに在ます。彼の機を受けすんば煩悩に負くべし。只一頭に强き心を用ゆるの外なし。
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『驢鞍橋』卷上良有りて曰、筋の差ふたと云ふ証拠には、仏像を一つ見出す人なし。先づ若き衆には一々仏像の位を教へ度也。皆あんと見て居るつれ計り也。今時も文珠をば使ふとも、仏の如く普賢を使ふ人有るべからす。時に僧問、文珠普賢も作物なりや。師答て曰く、中々造物也。文珠は是れ七仏の師なりと云を以て知るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上又曰く、総して羅漢等に至る迄機を付けて見るべし、機の抜けたる仏像あるべからす。皆眼すわつて活きた形計り也。毘沙門のあまのじやくを蹈付け給ふ処は、自己を睨付けて守る位也。扨韋駄天抔も急度つまつた処を造りたるは、能き造り様、庫裡の本尊とも云ふべき像也。大形仏像は見ゆるが大黒計り指して面白くも思はず、定めて様子有るべしと也。
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『驢鞍橋』卷中師衆に対して曰く、先年三州にて、去る者、仏像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尚見て曰く、汝仏像を破りし罰にて、加様の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は仏像を破りし罰にてどすと成る、仏像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尚無対。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の仏を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又悪人の仏を破り寺を破るは、我身心を破る也。木仏に善悪の心なし。皆我心にて我と作す所也