驢鞍橋 / 卷上
一日諸人勇猛心をえ受けぬと云ふ時に、師急度吽二王の眞似を作して曰く、何と此機移るや、又大手をひろげて口を阿と張り、此機移るや、河州にて如是造りたる阿二王を見る、誰が見ても機の移りさうな二王也。尤も吽もよし其外はどこで見たも大形へご二王計り也。亦自ら模樣を作して曰、如是きつとねぢ廻して、じりじりと懸かる處を造りたる佛像、鎌倉覺園寺の十二神の中に有り、中々よき威勢也。我には是れが第一に相應する也。爰を以て果し眼と云ふ事云ひ出して人に授ける也。
新字:一日諸人勇猛心をえ受けぬと云ふ時に、師急度吽二王の真似を作して曰く、何と此機移るや、又大手をひろげて口を阿と張り、此機移るや、河州にて如是造りたる阿二王を見る、誰が見ても機の移りさうな二王也。尤も吽もよし其外はどこで見たも大形へご二王計り也。亦自ら模様を作して曰、如是きつとねぢ廻して、じりじりと懸かる処を造りたる仏像、鎌倉覚園寺の十二神の中に有り、中々よき威勢也。我には是れが第一に相応する也。爰を以て果し眼と云ふ事云ひ出して人に授ける也。
書き下し
一日諸人勇猛心をえ受けぬと云ふ時に、師急度吽二王の真似を作して曰く、何と此機移るや、又大手をひろげて口を阿と張り、此機移るや、河州にて如是造りたる阿二王を見る、誰が見ても機の移りさうな二王也。尤も吽もよし其外はどこで見たも大形へご二王計り也。亦自ら模様を作して曰、如是きつとねぢ廻して、じりじりと懸かる処を造りたる仏像、鎌倉覚園寺の十二神の中に有り、中々よき威勢也。我には是れが第一に相応する也。爰を以て果し眼と云ふ事云ひ出して人に授ける也。
現代語訳
ある日、人々が勇猛心を受け取れないと言ったとき、師はきっと吽形の仁王の真似をして言われた。どうだ、この気迫は移るか。また大手を広げて口を阿と開き、この気迫は移るか。河内で、このように造った阿形の仁王を見た。誰が見ても気迫が移りそうな仁王である。もっとも吽形もよい。そのほかは、どこで見てもたいていへなへなの仁王ばかりである。また自ら姿をして言われた。このようにきっとねじ回して、じりじりと懸かるところを造った仏像が、鎌倉の覚園寺の十二神の中にある。なかなか良い威勢である。私にはこれが第一に相応する。これによって、果たし眼ということを言い出して人に授けるのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、仏像の機を受くる事は、我と受けねば云つては聞かせ難し。合点しても機に受けねば用に不立、我是れ計りをいへども、受けたる人一人も無し。今よりは腹立ちたる時の機を用ゐよと授けんずと思ふ也。此機を用ゐ得ば、病も抜け命も延ぶへし。亦機を抜かし居て、心を砕き身を苦むる者、非業の死も有るへき事也。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に向て曰く、傍に居れば機移る物也、何れも機移るや、機移ると云ふは勇猛の機一つ也。何と二王不動の像を見ても機うつらざるや、定めて推量には見知り得、移り度と思ふ心は有らんずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日衆に語て曰く、此前吉野にて大峰懸出の山伏、大太刀を十文字にはき、金剛杖を撞き、大童に成つて通るを見て、扨も役の行者はでかい修行者で在つたよと、ひしと機に移り、誠に捨身の修行、如是ならではと思付きてより、二王を見出す也。夫れより次第に仏像の位を見出す也。是れも我胸に有る事に、ひしと相応するに依つて見出すなり。性弱くして見ゆべからず、後に去る山伏の法師に聞きければ、山伏の巻物の奥書に、捨身菩提とあり、亦頭巾の裏にも如是書して頂くといへり。誠に形より推顕して修す位也。実に実に捨身修行如是なくては、ふしも形付べからずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行と云ふは、二王不動の大堅固の機を受けて修すること、一つ也。此機を以て身心を責滅すより外、別に仏法を知らず。若し我法に入らんと思ふ人は、機をひつ立、眼をすゑ、二王不動悪魔降伏の形像の機を受け、二王心を守て悪業煩悩を滅すべし。古来より此仏像の沙汰したる人聞ねども、如何にしても我胸に相応して用ゐて、万事に自由也。仏は勇猛精進と諸経に多く説き給ふと見えたり。此機を受けずして煩悩に勝つと不可有。第一に仏像の機を受くると云ふことを能く可知。無精にして此機移るべからす、専ら仏像に眼を著けて二六時中金剛心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る武士に示して曰く、侍の役儀なる間、果し眼坐禅を仕習はるべし。我も様々修せし中に、余り我執尽ざる間□かつたいにも成りて見て修せし也。然れども是れでは今の用に不立、使はれぬと覚えて、果し眼坐禅に用習ふて、慥に禅定の機を知る也。然る間各々も六具をしめ、大小をも十文字に指働かし、八幡と云ふてねぢ廻はし、睨付けて坐禅を仕習ひめされよ。古具足有らば、御坊主達にも着せて坐禅を仕習せたし。何とだらついた坊主の心なりとも、六具鎖大小十文字に指したらば、其儘心は替るへしと也。時に一人曰く、先日も力を出す心と御意有りしに依つて、死の字を目の付け処に書付、急度睨付けて守る様に仕る。師曰、好し好し勢を出しめされよ、頓て坐禅の機を受けらるへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。