驢鞍橋 / 卷上
一日示して曰く、佛道修行は、佛像を手本にして修すべし。佛像と云ふは、初心の人如來像に眼を著けて如來坐禪は及ぶべからす、只二王不動の像等に眼を著けて二王坐禪を作すへし。先づ二王は佛法の入口、不動は佛の始めと覺えたり。然れはこそ二王は門に立ち、不動は十三佛の始めに在ます。彼の機を受けすんば煩惱に負くべし。只一頭に强き心を用ゆるの外なし。
新字:一日示して曰く、仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。仏像と云ふは、初心の人如来像に眼を著けて如来坐禅は及ぶべからす、只二王不動の像等に眼を著けて二王坐禅を作すへし。先づ二王は仏法の入口、不動は仏の始めと覚えたり。然れはこそ二王は門に立ち、不動は十三仏の始めに在ます。彼の機を受けすんば煩悩に負くべし。只一頭に强き心を用ゆるの外なし。
書き下し
一日示して曰く、仏道修行は、仏像を手本にして修すべし。仏像と云ふは、初心の人如来像に眼を著けて如来坐禅は及ぶべからす、只二王不動の像等に眼を著けて二王坐禅を作すへし。先づ二王は仏法の入口、不動は仏の始めと覚えたり。然れはこそ二王は門に立ち、不動は十三仏の始めに在ます。彼の機を受けすんば煩悩に負くべし。只一頭に强き心を用ゆるの外なし。
現代語訳
ある日示して言われた。仏道修行は仏像を手本にして修めるべきである。仏像といっても、初心の人が如来の像に目をつけて如来のように坐禅することはできない。ただ仁王や不動明王の像などに目をつけて、仁王坐禅をするがよい。まず仁王は仏法の入口、不動は仏の始めと心得よ。だからこそ仁王は門に立ち、不動は十三仏の最初におられるのである。あの気迫を受けなければ、煩悩に負けてしまうだろう。ただひたすら強い心を用いるほかはない。
解説
正三の代名詞である仁王坐禅を説く条である。穏やかな如来の姿を初心者がいきなり手本にしても真似できない。まずは寺の門を守る仁王や、怒りの形相の不動明王の気迫を自分に移せ、という。仁王が門に、不動が十三仏の最初に置かれるのは、入門の段階にこそ強さが必要だからだ、と読み解くのが面白い。いきなり理想の完成形を目指すより、まず入口にふさわしい手本を選べ、という学びの順序の教えとしても読める。
この章句が説くこと
仁王坐禅不動明王手本気迫入門仏像
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行と云ふは、二王不動の大堅固の機を受けて修すること、一つ也。此機を以て身心を責滅すより外、別に仏法を知らず。若し我法に入らんと思ふ人は、機をひつ立、眼をすゑ、二王不動悪魔降伏の形像の機を受け、二王心を守て悪業煩悩を滅すべし。古来より此仏像の沙汰したる人聞ねども、如何にしても我胸に相応して用ゐて、万事に自由也。仏は勇猛精進と諸経に多く説き給ふと見えたり。此機を受けずして煩悩に勝つと不可有。第一に仏像の機を受くると云ふことを能く可知。無精にして此機移るべからす、専ら仏像に眼を著けて二六時中金剛心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、凡夫元より物に碍らずして、ぬんとしたる如来心有れども、六賊煩悩に責め失はれて居る也。然る間二王心を以て六賊煩悩を防ぐときんば、自ら本心はそだつ也。譬へば下馬には棒つき有り、内には広間番、段々の番所ありて、堅く守護し奉れば、君自ら大平に在すが如し。二王は是れ如来の足軽坐禅也。先づ此足軽坐禅をよう仕習ひめされよ。扨亦坐敷には十六善神。四天王、段々の本心の守護神有り、亦十二神は頭に十二支を頂き給ふ、是れ十二時の番衆也。如是十二時中强く守るときんば、煩悩消滅して、本尊自ら堅固也。此機を受けすして煩悩に勝つ事有るべからす。此仏像の道理計りは是非に御公儀へ申上け度く思ふ也。云はるゝ物ならは幽霊に成りてなりとも云ひ度く思ふと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る侍に示して曰く、始めより忙敷中にて坐禅を仕習ふたるが好き也。殊に侍は鯨波の中に用ふる坐禅を仕習はで不叶、鉄鉋をばたばたと打立て、互に鑓先を揃へて、わつわつと云ふて乱れ逢ふ中にて、急度用ひて爰で使ふ事也。なにと静なる処を好む坐禅が、加様の処にて使はれんや。総して侍はなにと好き仏法なりと云ふとも、ときの声の内にて用に立たぬ事ならは、捨たがよき也。然る間常住二王心を守習ふ外なし。扨初心の者二王心の外にて、万事の上に使ふ事成るへからず。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、平生禅定にて居るほど、坐禅を仕習ふへし。浄土宗には念仏を以て信心を申し起し、禅宗には坐禅を以て無相無念の本心を修し出だす也。然る間强く眼をつけて、自ら勇猛精進の心湧出づるほど修すべし。左無くんば彼煩悩に負けて、坐禅常住なるへからずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、皆行する処に眼を著けて强く行すべし。先づ念仏を申さん人は、念仏に勢を入れて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふへし。如是せば妄想いつ去ると無く自ら休むへし。譬へば事忙敷家には客来れども頓て帰るか如し。縦ひ妄想起るとも、强く勤めて取合はすんは頓て滅すへし。然る間起る処の念には不搆、行する処に眼を付けて修すべし。功重らば坐禅の機備り、二王の機抔と云ふ事も知るへしと也。