驢鞍橋 / 卷上
良有りて曰、筋の差ふたと云ふ證據には、佛像を一つ見出す人なし。先づ若き衆には一々佛像の位を敎へ度也。皆あんと見て居るつれ計り也。今時も文珠をば使ふとも、佛の如く普賢を使ふ人有るべからす。時に僧問、文珠普賢も作物なりや。師答て曰く、中々造物也。文珠は是れ七佛の師なりと云を以て知るべしと也。
新字:良有りて曰、筋の差ふたと云ふ証拠には、仏像を一つ見出す人なし。先づ若き衆には一々仏像の位を教へ度也。皆あんと見て居るつれ計り也。今時も文珠をば使ふとも、仏の如く普賢を使ふ人有るべからす。時に僧問、文珠普賢も作物なりや。師答て曰く、中々造物也。文珠は是れ七仏の師なりと云を以て知るべしと也。
書き下し
良有りて曰、筋の差ふたと云ふ証拠には、仏像を一つ見出す人なし。先づ若き衆には一々仏像の位を教へ度也。皆あんと見て居るつれ計り也。今時も文珠をば使ふとも、仏の如く普賢を使ふ人有るべからす。時に僧問、文珠普賢も作物なりや。師答て曰く、中々造物也。文珠は是れ七仏の師なりと云を以て知るべしと也。
現代語訳
しばらくして言われた。筋が違っているという証拠には、仏像を一つでも見出す人がいない。まず若い衆には、一つ一つ仏像の位を教えたい。みな、ぽかんと見ている類ばかりである。今どきも文殊を使っても、仏のように普賢を使う人はいないだろう。そのとき僧が尋ねた。文殊や普賢も作り物ですか。師は答えて言われた。なるほど作り物である。文殊はこれ七仏の師である、ということで知りなさい、と。
解説
筋が違っている証拠に、仏像の意味を読み取れる人がいない、と正三は言う。若い僧には一つ一つ教えたい、みなぽかんと眺めているだけだ、と。文殊は智慧、普賢は実践を象徴する菩薩で、智慧は使っても実践を使いこなす人はいない、と。文殊や普賢も作り物かと問われ、作り物だ、文殊が七仏の師だというのは智慧の象徴だからだ、と答える。象徴を眺めるだけでなく、その意味を自分の在り方に読み取れという教えである。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
仏像文殊普賢象徴智慧と実践教育
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷中〇一、仏像建立の趣を見るに、門に金剛の形像を立置き、坐敷には十二神、十六善神、八金剛、四天王、五大尊、各々威勢を振ひ、物の具を着し、鋒刀杖弓矢を持て双ひ在す、此の意に徹せすして修行する人は、六賊煩悩を治すること難し。修行疎にして、此の意に至るへからす。願はくは仏像に眼を著て、修行し給へかしとの念願也、と云ふは、仏像の位を能く見て、あの機を受け、是れを手本と成して修せよとの念願也。此の意を受けすして煩悩を滅すること有るへからす。去りなから此の段計は我機になけれは、沙汰には云ひ聞かせ難し、習ひ事にして末々にて錯り多かるへし。只我と機に受くへき也。
-
『驢鞍橋』卷上一日僧問ふ、十二神と二王の機に諸訛有りや。師答て曰く、二王は只一方向きに用ゐた心の位也。十二神は夫れよりおとなしゝ、少し熟したる心の位也。菩薩像如来像の段々は、次第に熟して心の使はるゝ位也。十二神の十二支を頂き給ふは、十二時修行の体也。四天王はあまのじやくを蹈み付けて居給ふ。我等は頭に頂いて居る也。因に曰、何れも仏像は何より出たると思ふや。皆仏心より出たり。仏の其時其時の我心を像に顕はし、名を付けて示し給ふ也。
-
『驢鞍橋』卷中師衆に対して曰く、先年三州にて、去る者、仏像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尚見て曰く、汝仏像を破りし罰にて、加様の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は仏像を破りし罰にてどすと成る、仏像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尚無対。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の仏を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又悪人の仏を破り寺を破るは、我身心を破る也。木仏に善悪の心なし。皆我心にて我と作す所也
-
『驢鞍橋』卷上又曰く、総して羅漢等に至る迄機を付けて見るべし、機の抜けたる仏像あるべからす。皆眼すわつて活きた形計り也。毘沙門のあまのじやくを蹈付け給ふ処は、自己を睨付けて守る位也。扨韋駄天抔も急度つまつた処を造りたるは、能き造り様、庫裡の本尊とも云ふべき像也。大形仏像は見ゆるが大黒計り指して面白くも思はず、定めて様子有るべしと也。
-
『驢鞍橋』卷上夜話の次で、一僧今世間仏と云ふ仏像を造らば、如何造らんやと云ふ。時に又一僧曰、千手観音是れ娑婆仏也。世間業の具皆御手に有り、然らは世間の事は皆大悲菩薩の行也。師聞て曰、誠に然かなり、夫れならば世人皆仏なるへきか、凡夫と聖人の替り有るは如何。僧曰、用ゐ様に替り有るべし。師曰、早違へり、仏は我を離れて作し給ふ。凡夫は我に着して作すと也。
-
『驢鞍橋』卷上一日去る僧云ふ、何某殿は殊の外利根人也。志も少し有り、教化有るべし。師曰く、あれほど利根にては仏法に入られてこそ。亦僧曰、誠に利根に碍られて聞き得べからす。師曰、其儀にあらず、夫れは随分聞くべし。然れども何と聞きてもあの利根すたるべからす、聞くほと利根增して、利根仏法に成つて果すべし。扨仏法と云ふは鈍をも利根をも打捨つる事也。