驢鞍橋 / 卷上
夜話の次で、一僧今世間佛と云ふ佛像を造らば、如何造らんやと云ふ。時に又一僧曰、千手觀音是れ娑婆佛也。世間業の具皆御手に有り、然らは世間の事は皆大悲菩薩の行也。師聞て曰、誠に然かなり、夫れならば世人皆佛なるへきか、凡夫と聖人の替り有るは如何。僧曰、用ゐ樣に替り有るべし。師曰、早違へり、佛は我を離れて作し給ふ。凡夫は我に着して作すと也。
新字:夜話の次で、一僧今世間仏と云ふ仏像を造らば、如何造らんやと云ふ。時に又一僧曰、千手観音是れ娑婆仏也。世間業の具皆御手に有り、然らは世間の事は皆大悲菩薩の行也。師聞て曰、誠に然かなり、夫れならば世人皆仏なるへきか、凡夫と聖人の替り有るは如何。僧曰、用ゐ様に替り有るべし。師曰、早違へり、仏は我を離れて作し給ふ。凡夫は我に着して作すと也。
書き下し
夜話の次で、一僧今世間仏と云ふ仏像を造らば、如何造らんやと云ふ。時に又一僧曰、千手観音是れ娑婆仏也。世間業の具皆御手に有り、然らは世間の事は皆大悲菩薩の行也。師聞て曰、誠に然かなり、夫れならば世人皆仏なるへきか、凡夫と聖人の替り有るは如何。僧曰、用ゐ様に替り有るべし。師曰、早違へり、仏は我を離れて作し給ふ。凡夫は我に着して作すと也。
現代語訳
夜話のついでに、一人の僧が、今、世間仏という仏像を造るなら、どう造ればよいでしょうか、と言った。そのとき、また一人の僧が言った。千手観音こそ娑婆の仏です。世間の仕事の道具がみな御手にあります。それならば、世間のことはみな大悲菩薩の行です。師は聞いて言われた。本当にそうである。それならば、世の人はみな仏であるはずだが、凡夫と聖人の違いがあるのはなぜか。僧は言った。用い方に違いがあるのでしょう。師は言われた。もう違っている。仏は我を離れてなさる。凡夫は我に執着してするのである、と。
解説

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関連する章句
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『驢鞍橋』卷上良有りて曰、筋の差ふたと云ふ証拠には、仏像を一つ見出す人なし。先づ若き衆には一々仏像の位を教へ度也。皆あんと見て居るつれ計り也。今時も文珠をば使ふとも、仏の如く普賢を使ふ人有るべからす。時に僧問、文珠普賢も作物なりや。師答て曰く、中々造物也。文珠は是れ七仏の師なりと云を以て知るべしと也。
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万民徳用・職人日用・答答て云はく、何の事業も、皆仏行なり。人々の所作の上においては成仏したまふへし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるへし。仏体をうけ、仏性そなはりたる人間、意得あしくして、好て悪道に入ることなかれ。本覚真如の一仏、百億分身して世界を利益したまふなり。鍛冶、番匠をはじめ、諸職人なくしては、世界の用所調ふべからず。武士なくして、世治るへからず。農人なくして、世界の食物あるべからず。商人なくして、世界の自由なるべからず。此の外所有事業出来て、世のためとなる。天地をさたじたる人もあり、文字を造出したる人も有り、五臓を分けて医道を施す人もあり、其の品々限なく出て、世のためとなるといへども、唯是れ一仏の徳用なり。如此ありかたき仏性を人々具足すといへ共、この理をしらずして、我と此の身を賤しくなし、悪心悪業を専として、好て悪道に入るを迷の凡夫とはいふなり。三世の諸仏出世ありて、衆生則ち仏なる事を直にしめしたまへり。眼に色を見、耳に声を聞き、鼻に香をかぎ、口に物を云つて、思ふ事の自由をなす、手の自由、足の自由、唯是れ一仏の自由なり。去る間、後世を願ふといふは、我身を信ずるを本意とす。誠に成仏を願ふ人ならば、唯自身を信ずべし。自身を信ずるといふは、自身則ち仏なれは、仏の心を信すへし。仏に欲心なし、仏の心に嗔恚なし、仏の心に愚痴なし、仏の心に生死なし、仏の心に是非なし、仏の心に煩悩なし、仏の心に悪事なし、如此の理を信せずして、私に貪欲を作出し嗔恚を発し、愚痴に住在して、日々夜々、我執我慢、邪見妄想を主として、彼に従て苦痛悩乱の心休む時なく、本有の自性を失て、一生空しく大地獄を造堅めて、未来永劫すみかとせん事、かなしまざるべけんや。是れを恐れ是れをなげきて、一大事のこゝろざしをはげまし、万念を放下して、所作所為の上に就て、切に急に真実勇猛の念仏を以て、自己の真仏を信仰せは、気の熟するに従て、自然に誠の心至極して、終に信得し究る時、覚ゑす無我無人無住所の境に入て、自己の真仏顕然たるべし。一筋に信仰せよ信仰せよ。
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『驢鞍橋』卷中師衆に対して曰く、先年三州にて、去る者、仏像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尚見て曰く、汝仏像を破りし罰にて、加様の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は仏像を破りし罰にてどすと成る、仏像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尚無対。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の仏を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又悪人の仏を破り寺を破るは、我身心を破る也。木仏に善悪の心なし。皆我心にて我と作す所也
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『驢鞍橋』卷中問ふ、世間に入り得れば、出世に余り無し。此の意如何。師答て云はく、世法は皆是れ聖人の教也。入得たる人を聖人と云ふと見えたり。然れは聖人と仏とは遠からじと思ふ也。又問ふ、仁義を守る人を、世間に入得たる人と申すへきや。師云はく、是れ入得たる人に非す、今入り習ふ人なり。君子に仁義有り、僧に法有りと悪く云へりと也。
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『驢鞍橋』卷中仏は世界に有りと有る程の事は、皆作し尽くして成道也。此の間を娑婆往来八千度と云ふ也。此の故に世界の中の諸芸、皆世人より上手也。十方世界尽く天外地外迄知り玉はざる所なし。芥子計も作し得たまはざる事なし。実に三大阿僧祇劫を歴ての成仏と見えたり、扨て扨て広大無辺思量に不及処也。総而我作して見てさへも、大儀な物哉。多生にも成就し難かるべしと思はるゝなり。然るに皆骨髄に徹して作して見て、さてもならぬ物哉と云ふ事を知らす、ちよつと成る様に思はるゝに依て、少見解有れは、はや如来と別ならすと思はるゝ也。経には五十二位を立て給ふ、此の一地を歴る間も、幾劫ならんや。聖徳太子も、六地の菩薩弘法大師も、やうやう三地に入りたまふと聞く也。急になる事にあらす。禅宗には一筋の理を見せて得入さする也。夫れとても多劫に修し尽くさでは叶はず、古人と云つても、境界よふ熟せるは少かるべしと也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。