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驢鞍橋 / 卷上

去る曉曰く、我若き時より强く修せしかば、常住はつしとした心と成り、心面白くあり、殊に曉抔は飛んて出づるやうに勇ましく成りけるが、後にはひしと憂機に成り中々切也。扨もいやな事哉。修行仕下げたるか。如何にしても下がる筈は無いがと疑はしく思ひ、玄俊坊に語りければ、坊曰、其方胸は佛經に契符す。天然と云はるゝ事佛語に契ふ。正法念經に曰く、智者常懷憂如似獄中囚、愚者常歡樂猶如光音天と有りと云へり。爰に於て我修行錯らさると云ふ事を知つて、次第强に一大事因緣と成る也。亦其比坐禪は安樂の法門と古人云へるが、我か胸大苦せまる間、疑はしく思ひけるが、玄俊坊に角言はれて、是れも落着きたり。今思ふに此苦の中、亦安樂は安樂也。乍去此語は末世の者を錯る事多からんずと也。

新字:去る暁曰く、我若き時より强く修せしかば、常住はつしとした心と成り、心面白くあり、殊に暁抔は飛んて出づるやうに勇ましく成りけるが、後にはひしと憂機に成り中々切也。扨もいやな事哉。修行仕下げたるか。如何にしても下がる筈は無いがと疑はしく思ひ、玄俊坊に語りければ、坊曰、其方胸は仏経に契符す。天然と云はるゝ事仏語に契ふ。正法念経に曰く、智者常懐憂如似獄中囚、愚者常歓楽猶如光音天と有りと云へり。爰に於て我修行錯らさると云ふ事を知つて、次第强に一大事因縁と成る也。亦其比坐禅は安楽の法門と古人云へるが、我か胸大苦せまる間、疑はしく思ひけるが、玄俊坊に角言はれて、是れも落着きたり。今思ふに此苦の中、亦安楽は安楽也。乍去此語は末世の者を錯る事多からんずと也。

書き下し

去る暁曰く、我若き時より强く修せしかば、常住はつしとした心と成り、心面白くあり、殊に暁抔は飛んて出づるやうに勇ましく成りけるが、後にはひしと憂機に成り中々切也。扨もいやな事哉。修行仕下げたるか。如何にしても下がる筈は無いがと疑はしく思ひ、玄俊坊に語りければ、坊曰、其方胸は仏経に契符す。天然と云はるゝ事仏語に契ふ。正法念経に曰く、智者常懐憂如似獄中囚、愚者常歓楽猶如光音天と有りと云へり。爰に於て我修行錯らさると云ふ事を知つて、次第强に一大事因縁と成る也。亦其比坐禅は安楽の法門と古人云へるが、我か胸大苦せまる間、疑はしく思ひけるが、玄俊坊に角言はれて、是れも落着きたり。今思ふに此苦の中、亦安楽は安楽也。乍去此語は末世の者を錯る事多からんずと也。

現代語訳

ある明け方言われた。私は若いときから強く修めたので、常にはっしとした心となり、心は面白く、とりわけ明け方などは飛び出すように勇ましくなったが、後にはひしと憂いの気迫になって、なかなか切実である。なんとも嫌なことだ。修行が下がったのか。どうしても下がるはずはないが、と疑わしく思って、玄俊坊に語ったところ、坊は言った。あなたの胸は仏典にかなっている。自然にそうなるのは仏語にかなう。正法念処経に、智者は常に憂いを懐くこと獄中の囚人のようであり、愚者は常に歓楽すること光音天のようである、とある、と言った。そこで私は、修行を誤っていないことを知って、次第に強く一大事の因縁となったのである。またそのころ、坐禅は安楽の法門だと古人が言ったのに、私の胸は大きな苦しみが迫るので疑わしく思ったが、玄俊坊にこう言われて、これも落ち着いた。今思えば、この苦しみの中にも、また安楽は安楽である。とはいえ、この言葉は末世の者を誤らせることが多いだろう、と。

解説

若いころは勇ましく晴れやかだった心が、修行を積むほど憂いに満ちて切実になった。修行が後退したのかと悩む正三に、友の玄俊坊は、智者は獄中の囚人のように常に憂いを懐き、愚者は天人のように楽しむ、という経文を示して安心させた。深く理解するほど、事の重大さが見えて苦しくなる。それは後退ではなく前進の証だ、と。成長の途中で感じる苦しさや不安を、否定せずに受け止める視点を与えてくれる。

この章句が説くこと

憂い成長正法念処経安楽不安

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