驢鞍橋 / 卷上
壬辰冬夜の晩示して曰く、月日の立つ事、扨々間も無き事哉。生死大事なり、各々うつかと日を送るへからす。正三か七十に餘るを年寄とこそ思はるらん。わかき衆を始め此座中にも、我より年寄有らんも實に不定也。臘月三十日來らずんば知らぬ事なり。必ず油斷めさるゝなと也。
新字:壬辰冬夜の晩示して曰く、月日の立つ事、扨々間も無き事哉。生死大事なり、各々うつかと日を送るへからす。正三か七十に余るを年寄とこそ思はるらん。わかき衆を始め此座中にも、我より年寄有らんも実に不定也。臘月三十日来らずんば知らぬ事なり。必ず油断めさるゝなと也。
書き下し
壬辰冬夜の晩示して曰く、月日の立つ事、扨々間も無き事哉。生死大事なり、各々うつかと日を送るへからす。正三か七十に余るを年寄とこそ思はるらん。わかき衆を始め此座中にも、我より年寄有らんも実に不定也。臘月三十日来らずんば知らぬ事なり。必ず油断めさるゝなと也。
現代語訳
壬辰の年の冬の夜、示して言われた。月日の経つのは、なんとも間もないことだ。生死は大事である。皆さんはうっかりと日を送ってはならない。正三が七十を過ぎているのを、年寄りだと思っているだろう。若い衆をはじめ、この座の中にも、私より先に死ぬ人がいるかもしれないのは、本当に定まっていないことである。臘月三十日(命の終わる日)が来なければ分からないことだ。決して油断してはならない、と。
解説
七十を過ぎた自分を年寄りだと思っているだろうが、この場の若い者の中にも、自分より先に死ぬ者がいるかもしれない、と正三は語る。臘月三十日とは大晦日のことで、禅では命の終わる日のたとえに使う。死ぬ順番は年齢どおりではない。若さを理由に、時間はたっぷりあると思い込む油断を戒めている。この条の途中には、頭注の語釈が本文に割り込んでいたため、取り除いて読んでいる。
この章句が説くこと
臘月三十日無常油断時間若さ生死
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上壬辰八月日、一僧某殿大坂御番に一両日中に上り給ふと云ふ。師聞て曰、当春聞きし時は、まだ間有る様に思はれけるが、いつの間にか月日立ち、程無く二三日に推詰りけるよ。我命も今は有る様に思ふが、俄にこそ詰らんずよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、人毎に死を忘れて今日角有れば、明日も角有らんと思ふ。亦人人今ではあらじと思ふ物也。究めて聞き事也。左様に思ひ居たる者共皆死失せし也。彼等も時を知るにあらず、各各やうに思ひし者共也。此理を弁へずあだなる身を我身と思ひ、仮の娑婆を我娑婆と思ひ、万才楽と限りなく楽み居る也。如是思懸けなき処に、俄に闇魔の使ふと来り、五臓六腑を責破り、命を責め取る時、眼くらみ耳かすかにして、舌すくみ総身に死苦せまり、苦みの堪えがたきのみならず、命の惜しさ娑婆のなごりの惜しさ云ふ計りなく、前後暗くして何くへ行くと云ふ道やりなく、其時に悔ふるともかひあらんや。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に語て曰く不断には無きが、時々死機せまりて切也。亦暁ごとに時定まりて、大事ほぞの下より起り、胸に責め塞つて中々心安く息をつがるゝやうな事に非す。時に僧問、生死の大事を大事と申すや。師曰、何が大事と云ふとはなし、唯大事也。
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『驢鞍橋』卷上一日亡者弔ひの次て、師愕然として曰く、皆人計りを弔ふ弔ふと思つて、我も頓て弔らはるへしと云ふ事を知らず。仮にも思ひよらず、只有りて俄に詰りてぎくついて死す。さても暗き物哉と也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来りて雑話の次てに、あはれ御歳を廿計りに仕りたしと云ふ。師聞て曰く、扨々いやな事哉。若き時の心にて、世に住まん事髄に透りて片時もいや也。若し我今の心にてならば苦からす。其故は此前一年の修行よりも、まだ今一日の修行が大切也。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰く、其辺にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に頼敷思ふが、弥修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の来る事有りとも油断し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の来る様也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。