驢鞍橋 / 卷上
一日去る人來りて雜話の次てに、あはれ御歲を廿計りに仕りたしと云ふ。師聞て曰く、扨々いやな事哉。若き時の心にて、世に住まん事髄に透りて片時もいや也。若し我今の心にてならば苦からす。其故は此前一年の修行よりも、まだ今一日の修行が大切也。
新字:一日去る人来りて雑話の次てに、あはれ御歳を廿計りに仕りたしと云ふ。師聞て曰く、扨々いやな事哉。若き時の心にて、世に住まん事髄に透りて片時もいや也。若し我今の心にてならば苦からす。其故は此前一年の修行よりも、まだ今一日の修行が大切也。
書き下し
一日去る人来りて雑話の次てに、あはれ御歳を廿計りに仕りたしと云ふ。師聞て曰く、扨々いやな事哉。若き時の心にて、世に住まん事髄に透りて片時もいや也。若し我今の心にてならば苦からす。其故は此前一年の修行よりも、まだ今一日の修行が大切也。
現代語訳
ある日、ある人が来て雑談のついでに、ああ、お年を二十歳ほどにしてさしあげたいものです、と言った。師は聞いて言われた。なんとも嫌なことだ。若いときの心で世に住むことは、骨身にしみて片時も嫌である。もし今の私の心のままでならば、構わない。そのわけは、以前の一年の修行よりも、今の一日の修行のほうが大切だからである、と。
解説
若返らせてあげたいという世辞に、正三は、若い頃の心で生きるのは骨身にしみて嫌だと答える。今の心のまま若くなるなら構わないが、以前の一年の修行より、今の一日の修行のほうが大切だ、と。若さそのものに価値を置く世間の見方を、きっぱり退けている。年齢を重ねて得た心の在り方こそが財産であり、今日の一日にこそ最も重みがある。老いを嘆く人に、今日という日の価値を示す条である。
この章句が説くこと
老い若さ今日修行成熟時間
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日强く陀羅尼を誦する人来るに示して曰く、他念無く咒をくらるゝ事なにより好き事也。功を積まば業障尽き、病もぬけ寿も延び、心の苦も休み、臨終も正念なるべし、因に去る者曰く、某殿修行精に入られけるが、此比は機軽く体迄若やぎて見ゆると云ふ。師聞て曰く、中々さなくては、是非を思ふ念薄くなり、童に成るほとに若く見ゆへし。我も七十に余れとも、機また十八九にて居る也。
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『驢鞍橋』卷下一日、六十に余る遁世者の云はく、もはや此の年になりては、大国の主と成ても、何に成ても詮なき也。師聞て曰く、扨ても悪き心得哉。其の世間の立身は、元より望なき所なれば、若くてもさこそあらんす。法意に於ては、朝に道を聞て夕に死すとも可也といへり誠に末後の夕になりとも、手を打払つた如く、娑婆の隙明き了りならは、先つ今生の用調ひ終りたる也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只栄耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上壬辰冬夜の晩示して曰く、月日の立つ事、扨々間も無き事哉。生死大事なり、各々うつかと日を送るへからす。正三か七十に余るを年寄とこそ思はるらん。わかき衆を始め此座中にも、我より年寄有らんも実に不定也。臘月三十日来らずんば知らぬ事なり。必ず油断めさるゝなと也。
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『驢鞍橋』卷上師亦曰く、其辺にては若き衆、法を聞き伎量過ぐると云ふ沙汰なしや。我少しあぶなく思ふ也。彼人、沙汰無しと云ふ。師亦曰、其地の何某は此前死苦に責られける間、今に頼敷思ふが、弥修行募りて見ゆるや。彼人、今程沙汰もなしと云ふ。師曰、一一死死の来る事有りとも油断し、娑婆すきに成りたらば、跡もなくなるへし。少々死の来る様也共、ひしと死機に成る事は、功を積まずんば有るべからす。我も六十余りにして慥に是れを知ると也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。