驢鞍橋 / 卷上
夜話の次で僧問ふ、坐禪の時は古則をも不念、念佛をも申さず、只ぬんとしたる機を用ゐたるが好きなりや。師曰、中々只ぬんと用ふべし。亦機を付けて爲さば古則陀羅尼念佛も一つ事なり、其內に機の沈まぬやうに用ふる計り也。扨急度機の活きるやうにせんと思はば、達磨の面に眼を着けて、睨み坐禪を作すべしと也。
新字:夜話の次で僧問ふ、坐禅の時は古則をも不念、念仏をも申さず、只ぬんとしたる機を用ゐたるが好きなりや。師曰、中々只ぬんと用ふべし。亦機を付けて為さば古則陀羅尼念仏も一つ事なり、其内に機の沈まぬやうに用ふる計り也。扨急度機の活きるやうにせんと思はば、達磨の面に眼を着けて、睨み坐禅を作すべしと也。
書き下し
夜話の次で僧問ふ、坐禅の時は古則をも不念、念仏をも申さず、只ぬんとしたる機を用ゐたるが好きなりや。師曰、中々只ぬんと用ふべし。亦機を付けて為さば古則陀羅尼念仏も一つ事なり、其内に機の沈まぬやうに用ふる計り也。扨急度機の活きるやうにせんと思はば、達磨の面に眼を着けて、睨み坐禅を作すべしと也。
現代語訳
夜話のついでに、僧が尋ねた。坐禅のときは、古則も念じず、念仏も申さず、ただゆったりとした気迫を用いるのがよいのでしょうか。師は言われた。なるほど、ただゆったりと用いなさい。また、気迫をつけてするなら、古則も陀羅尼も念仏も同じことである。その中で、気迫が沈まないように用いるばかりである。さて、きっと気迫が生きるようにしようと思うなら、達磨の顔に目をつけて、睨み坐禅をしなさい、と。
解説
坐禅のとき何も念じずゆったりしてよいのか、という問いに、正三は、ゆったりでよいが、気迫が沈まないようにせよと答える。公案も陀羅尼も念仏も、気迫をつけて用いるなら同じだ、と方法の違いにこだわらない。そして、心を生き生きさせたいなら、達磨の顔を睨みつけて坐れ、と具体的な手がかりを示す。リラックスと緊張の釣り合いを、手本の顔という分かりやすい対象で整えさせる、実践的な指導である。
この章句が説くこと
坐禅達磨睨み坐禅釣り合い気迫方法
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、平生禅定にて居るほど、坐禅を仕習ふへし。浄土宗には念仏を以て信心を申し起し、禅宗には坐禅を以て無相無念の本心を修し出だす也。然る間强く眼をつけて、自ら勇猛精進の心湧出づるほど修すべし。左無くんば彼煩悩に負けて、坐禅常住なるへからずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日鉄長老問ふて曰く、散乱無き様にと静に坐禅致せば、機沈みて眠る也。如何用心仕るべきや。師示して曰、つゝつくつゝつくと躍つて坐禅めさるべしと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、我始め空々坐禅を能きことに思ふて久く用ゐけるが、一日、無念無心は釈迦仏に勝るはあるべからす。然るに仏さまざま有念を使つて、一代経を説き給ふは是非を分る上にて無念の道理有るべし。あつかぼうせんとしたることにあらじと思ひ替て、果眼に用ゐて、少し元に合ふては、臆病気退く也。各も是非を分ち、万事を作す上に無念にて居る坐禅をし習ふべし。
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『驢鞍橋』卷上一日若き侍両人来り、修行の用心を問ふ。師彼に問て曰く、其方達は何役をめさるゝや、時に一人広間番を仕ると云ふ。師示して曰、狼藉者に於ては縦ひ樊噲張良也とも、八幡通すましと急度ねぢまわして番を作すべし。是れ則ち坐禅也。別に用心有るべからず。亦一人は供番也と云ふ。師示して曰、何者にてもあれうろたへ者、又は逆心の者出来らば、忽ち無手と引組んて指違へんと、急度死を窮め、眼をすゑて供を作すべし。是れ則ち坐禅也。機を抜かして供を成さば、用に立つべからずと也。
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『驢鞍橋』卷下夜の次曰く、我常に謡を坐禅の機に用ゐよと云ふこと、何れも実にもと思はるゝや。一僧曰く、用ゐることを得ず、分別には好く肯ふと云ふ。師曰く、何には因らぬ、なるほど機を强く、ぬんと用ゐて、娑婆の念を去り習ふ外なし。何としても心娑婆に負けて居るもの也。能く用心すべしと也。
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『驢鞍橋』卷下扨て又今時諸方の念を起すまいと云ふ坐禅は、その起すまいと云ふ念が、早や起る也。念起さず、坐禅の筋も作して見たり。この前、万安和尚、岩村に居り給ふ時、彼処に至るに、一念起すまいとさへ思へば、石平より岩村迄、一念も起さす行きし也。然れども、是れも勇猛の機にて保つたこと也。其沈んた念起さず坊に非す、兎角大念起らすして、諸念休むべからず、畢竟諸方は「念起さす坐禅」我は「念起し坐禅」也。我は須弥山程の大念を起さすると也。