驢鞍橋 / 卷上
一日人來て曰く、去る寺の住持佛法嫌ひにて、檀那共の修行するを殊の外ひがみて謗られけるが、終に病者に成られたりと云ふ。師聞て曰、其心にては病者にならては。總して娑婆を分別し居る者は、胸塞り心沈みて病發るべし。修行者もすべ惡ければ、道理に落ちて心沈み、見掛け迄も沈みて見ゆる物也。然るに勇猛心を用ゐて、道理を離れて修する者は、心浮んて見懸け迄、活きて見ゆる物也。折節志無き僧坐に居けるを見て曰、扨も違へる事哉、名利僧の面は死んて見ゆる也。双び居るを比べて見て各別也。
新字:一日人来て曰く、去る寺の住持仏法嫌ひにて、檀那共の修行するを殊の外ひがみて謗られけるが、終に病者に成られたりと云ふ。師聞て曰、其心にては病者にならては。総して娑婆を分別し居る者は、胸塞り心沈みて病発るべし。修行者もすべ悪ければ、道理に落ちて心沈み、見掛け迄も沈みて見ゆる物也。然るに勇猛心を用ゐて、道理を離れて修する者は、心浮んて見懸け迄、活きて見ゆる物也。折節志無き僧坐に居けるを見て曰、扨も違へる事哉、名利僧の面は死んて見ゆる也。双び居るを比べて見て各別也。
書き下し
一日人来て曰く、去る寺の住持仏法嫌ひにて、檀那共の修行するを殊の外ひがみて謗られけるが、終に病者に成られたりと云ふ。師聞て曰、其心にては病者にならては。総して娑婆を分別し居る者は、胸塞り心沈みて病発るべし。修行者もすべ悪ければ、道理に落ちて心沈み、見掛け迄も沈みて見ゆる物也。然るに勇猛心を用ゐて、道理を離れて修する者は、心浮んて見懸け迄、活きて見ゆる物也。折節志無き僧坐に居けるを見て曰、扨も違へる事哉、名利僧の面は死んて見ゆる也。双び居るを比べて見て各別也。
現代語訳
ある日、人が来て言った。ある寺の住職は仏法嫌いで、檀家たちが修行するのをことのほかひがんで謗っておられましたが、ついに病人になられたそうです。師は聞いて言われた。その心では病人にならずにはいられない。おおよそ娑婆のことを分別している者は、胸が塞がり心が沈んで、病が起こるだろう。修行者もやり方が悪ければ、道理に落ちて心が沈み、見かけまで沈んで見えるものだ。ところが、勇猛心を用いて道理を離れて修める者は、心が浮かんで、見かけまで生き生きと見えるものである。ちょうど志のない僧が座にいるのを見て言われた。なんとも違うものだな。名利僧の顔は死んで見える。並んでいるのを比べて見れば格別である、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日聚会の次で、一僧去る病体の和尚に向つて云く、悪病抔出でざる様になさるべし。若し悪病出でば、大に人の為めに怨と成るべし。師聞て曰く、扨も詮なき事を云ふ人かな、如何なる病をか受け、如何なる死をかせん。我人知られてこそ因果次第也。従今分別するとも争かあたらんや。唯今修する処にこそ詮議はあれ、後はひつてひり破つても、死にめされよ。只死しても奇麗にもをりないぞ、野に成りとも山に成りとも只捨てめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来り、病者故に仏法を思ふ事成らずと云ふ。師聞て曰く、扨もよき病哉、羨敷病也。其れならば定めて世間の事も病機故に思はれまじ、是れに增したる事なし。身をも娑婆をもぐつと忘れ果てらるべし。総じて仏道と云ふは一切を思はぬ事也。
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『驢鞍橋』卷下未の二月日、四屋にて正庵大病を受くるを、師見舞有て、便ち牛込へ遷り、諸僧に語て曰く、扨て扨て大事の者哉。我能く是れを知る。其方達も腹立たる機のやうにして諸念の面を出さぬほどの位有りや。左無き人には、何ともせんずやうなしと也。
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『驢鞍橋』卷下つきの日、仏法病ある者を呵して曰く、其方は仏法有り、我は仏法なし。何としても格合ふべからす。向後出入無用也。又曰く、総じて人人此腐物を持ちながら、是れに眼を著けす、余所を沙汰して過す物也。扨て扨て愚也。昨日も正庵大息をつき病み苦むを見て、髄に透ていやな体哉と思はるゝ也。我始めより是れに眼を著けて修す。余所仏法に眼を着けす、今は大事に成り、いやに迫て居ること、其親に離れたそ、子を殺してずと云ふ様なことに非す、中中切也。この年迄如是すれとも、隙え明けぬ故に、是とは云はれねども、乍去我程にしつめたる人も多くはあらじと也。
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『驢鞍橋』卷下時に一女曰く、誠に余所の地獄まて取り来ること、我らが病也。如何が用心仕るべきや。師曰く、前より云ふ処の念仏、皆此の用心也。乍去道理を以て云ふべし。喩へば其方道を通らんに、死人が何す腐て有らんを、其方に取て行けと云へば、取らんや。女曰く、扨てもいやなこと哉、取り得べからす。師曰く、夫れならば人の心の悪しきをも取るべからず。人の心の悪しきは、心が腐つて居る也。此の腐物をも嫌ひめされよと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る人来り曰く何某は殊勝の僧にて、常に誦経計せらるゝ也。師聞て曰く、夫れても娑婆は大切なるべしと也。