驢鞍橋 / 卷上
壬辰冬示して曰く、去る者法然上人に後生の願ひ機を問ふ。法然答て曰、後世を願ふと云ふは唯今頸を切らるゝ者の心に成りて、念佛申すべしと也。是れよき敎也。誠に如是念佛せすんば、我執盡すべからずと也。
新字:壬辰冬示して曰く、去る者法然上人に後生の願ひ機を問ふ。法然答て曰、後世を願ふと云ふは唯今頸を切らるゝ者の心に成りて、念仏申すべしと也。是れよき教也。誠に如是念仏せすんば、我執尽すべからずと也。
書き下し
壬辰冬示して曰く、去る者法然上人に後生の願ひ機を問ふ。法然答て曰、後世を願ふと云ふは唯今頸を切らるゝ者の心に成りて、念仏申すべしと也。是れよき教也。誠に如是念仏せすんば、我執尽すべからずと也。
現代語訳
壬辰の冬、示して言われた。ある者が法然上人に、後生を願う心構えを尋ねた。法然は答えて言われた。後世を願うというのは、ただ今首を切られる者の心になって、念仏を申すべきである、と。これは良い教えである。本当に、このように念仏しなければ、我執は尽くせないだろう、と。
解説
法然が、後世を願うとは、今まさに首を切られる者の心で念仏することだ、と答えた言葉を、正三は良い教えだと称える。死を目前にした者の切実さでなければ、我執は尽きない、と。宗派を越えて、本気の切実さを持った言葉を受け取る正三の姿勢がよく表れている。形だけの祈りや習慣的な努力では、根深い自己中心の心は動かない。自分を変えるには、それほどの切実さが要るという教えである。
この章句が説くこと
法然念仏切実我執死宗派を越える
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上師亦曰、今時諸方に安く仏法を授くる人多し、我は授くへき物なし。我処に来ての得所には、何とも成らぬ物ぢやと云ふ事を知らるへし。是れを授け申すぞ。然れとも措かるゝ事に非す、一大事なれば、世々生々に於て種を失はず、終に仏果菩提を成せんと思ふ心は、我も强う持つ也。其方抔も只念仏申しに成りめさるべし。法然抔も念仏の外は菩提の為めに成る事を知らすと云ふて、一枚起請二枚起請三枚起請迄書置かれたり。我も此行を能く思ふ、先づ此行には病が著かぬ也。大鐘を胸の中にぐわんぐわんと扣き込んで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と力を出して申すべし。悪業少しも面を出すべからず。如是平生用ひて念を滅す事也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る遁世者来て、修行の用心を問ふ。師示して曰く、万事を打置て唯死に習はるべし。常に死に習つて、死の隙を明け、誠に死する時、驚かぬやうにすべし。□て死に習はるべし。彼者云、盲安杖を常に披見仕る、是等を見る事も悪しや。師曰、見て覚ゆる事は皆怨也。只念仏を以て死を軽くすべし。
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『驢鞍橋』卷上一日濃州より来る自本と云ふ遁世者、師を辞するに示して曰く、是れは我か其方への遺言也。必ず我に無き後世を人に教へめさるゝな。只人には我信実を起して見するが好し、総して化廻れば、先づ今生も住みにくき物也、只一心不乱に念仏を用ひ、我に離るゝ程申さるべし。我に離ると云ふは南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と死習ふて、死の隙を明くる事也。其方も自本は秘蔵なるへし、永き事は入らぬ、只念仏を以て自本を申し尽すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日老婆二三人来り、法要を問ふ。師我何にても教ふべき事を知らずと也。良有りて不図云ふ、しぬずよしぬずよ死ぬ事を忘れずして、念仏申しめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る老婆、若き女人五三人を相連立来て、後世の用心を問ふ。師示して曰く、我後世の願ひ様と云ふは、此の糞袋を秘蔵する念を申し消すべしと大願を立て、日夜强く念仏する計り也。時に一女曰く、左様に勤め候へば、何の徳有りや。師曰く、如是勤めては苦を離る也。総而後世を願ふと云ふは、死して後のことに非す、現に今苦を離れて大安楽に至ること也。然るにその苦は何より起ると思ふや。只此の身をかわゆかる念より起る也。此の身さへ無くんば、何か苦なるべき。故に此の身に離れたるを成仏とす。