驢鞍橋 / 卷上
一日心學を用ふる者來て法要を問ふ。師示して曰く、佛法と云ふは分別を以て身を修むる樣の事に非ず。跡を思はず後を分別せす、只今の一念を空く過さず、淸淨に用ゆる事也。故に古人も光陰を惜む事、第一に勸られたりと云ふは、心をはつしと守り、善惡の念ともに打拂つて、我に離るゝ事也。
新字:一日心学を用ふる者来て法要を問ふ。師示して曰く、仏法と云ふは分別を以て身を修むる様の事に非ず。跡を思はず後を分別せす、只今の一念を空く過さず、清浄に用ゆる事也。故に古人も光陰を惜む事、第一に勧られたりと云ふは、心をはつしと守り、善悪の念ともに打払つて、我に離るゝ事也。
書き下し
一日心学を用ふる者来て法要を問ふ。師示して曰く、仏法と云ふは分別を以て身を修むる様の事に非ず。跡を思はず後を分別せす、只今の一念を空く過さず、清浄に用ゆる事也。故に古人も光陰を惜む事、第一に勧られたりと云ふは、心をはつしと守り、善悪の念ともに打払つて、我に離るゝ事也。
現代語訳
ある日、心学を用いる者が来て、法の要を尋ねた。師は示して言われた。仏法というのは、分別によって身を修めるようなことではない。後のことを思わず、先を分別せず、ただ今の一念をむなしく過ごさず、清らかに用いることである。だから古人も、光陰を惜しむことを第一に勧められたというのは、心をはっしと守り、善悪の思いをともに打ち払って、自分から離れることである。
解説
考えを巡らせて身を修める心学の者に、正三は、仏法は分別で身を修めることではない、と言う。過去を思わず、先を分別せず、ただ今この瞬間の一念をむだにせず清らかに使うことだ、と。古人が時間を惜しめと説いたのは、忙しく働けという意味ではなく、善悪の思いさえ打ち払って、自分から離れよという意味だ、と読み解いている。計画や反省に心を奪われ、今この瞬間を生きていない人への教えである。
この章句が説くこと
一念今光陰分別心学清浄
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日人来り、何を承りても覚ねぬに仍りて修行仕り得ずと云ふ。師聞て曰く、扨も能き事也。一物をも覚えぬを仏法と云ふ也。是れに仍りて覚えて置く事を嫌ひ捨て、只念仏を以て胸の中の塵ほこりを払捨て払捨てする事を勤めさする也。如是勤めて仏法世法共に忘れ果て、はらりつと手を打叩いた如くに成るを成仏と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷下同十八日、去る俗士来り、某今迄終に仏法承らす、油断者也と云つて法要を問ふ。師曰く、何くにても聞きめされぬか仕合也。若し聞きめされたらば、疾く悟て隙を明けめさるべし。総而聞きて合点して置くことに非す。只修し行して、少し宛も心の垢を抜くこと也。暗心も明く成り、弱心も强く成る様に修すること、先つ大すべを心得めされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日来者に語て曰く、わがをつ切りの中にも云ひ習ふて、道理の上手は多きなり。然れども修行する者は一人もなし。我此前石の平にて少し沙汰しければ、皆理窟仏法に成るに依て飽果て、ふつと理を沙汰せず、ちよつとよりから一向に修し行する事計りを授くる也。総して仏道には利根知を嫌ふて、只頓機を法器とす。殊に禅法は執着を捨つる一つ也と云ふは、平生切端を用ゆる事也。生死を守ると云ふも切端一つ、禅機と云ふも切端の事也。
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『驢鞍橋』卷上一日老婆二三人来り、法要を問ふ。師我何にても教ふべき事を知らずと也。良有りて不図云ふ、しぬずよしぬずよ死ぬ事を忘れずして、念仏申しめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。