驢鞍橋 / 卷上
一日衆に語つて曰く、某殿謂へるは、人に逢つて能き事を聞かんと思ふは僻也。耳にて聞き得る事は用に立つべからす。縱ひ用に立つ事也とも、忘るゝ時は何程聞きてもむだ事也。只度々逢ひぬれば其機を受けて好し。兎角機に移らぬ事は用に立つへからず。我に逢へば機を受けて、しばしはよしと云はれたり。此前より我に逢ひたる人の中に、加樣に我に逢ひたる人なし。皆能き言聞きに來り、或は正三見物に來るつれ計り也。誠に我に逢はんは、此用處只一つ也。我機を受けずんば、一日二千度逢ふとも益有るべからずと也。
新字:一日衆に語つて曰く、某殿謂へるは、人に逢つて能き事を聞かんと思ふは僻也。耳にて聞き得る事は用に立つべからす。縦ひ用に立つ事也とも、忘るゝ時は何程聞きてもむだ事也。只度々逢ひぬれば其機を受けて好し。兎角機に移らぬ事は用に立つへからず。我に逢へば機を受けて、しばしはよしと云はれたり。此前より我に逢ひたる人の中に、加様に我に逢ひたる人なし。皆能き言聞きに来り、或は正三見物に来るつれ計り也。誠に我に逢はんは、此用処只一つ也。我機を受けずんば、一日二千度逢ふとも益有るべからずと也。
書き下し
一日衆に語つて曰く、某殿謂へるは、人に逢つて能き事を聞かんと思ふは僻也。耳にて聞き得る事は用に立つべからす。縦ひ用に立つ事也とも、忘るゝ時は何程聞きてもむだ事也。只度々逢ひぬれば其機を受けて好し。兎角機に移らぬ事は用に立つへからず。我に逢へば機を受けて、しばしはよしと云はれたり。此前より我に逢ひたる人の中に、加様に我に逢ひたる人なし。皆能き言聞きに来り、或は正三見物に来るつれ計り也。誠に我に逢はんは、此用処只一つ也。我機を受けずんば、一日二千度逢ふとも益有るべからずと也。
現代語訳
ある日、衆に語って言われた。某殿が言われるには、人に会って良いことを聞こうと思うのは偏っている。耳で聞き得ることは役に立たない。たとえ役に立つことであっても、忘れたときは、どれほど聞いてもむだなことだ。ただたびたび会えば、その気迫を受けてよい。とにかく気迫が移らないことは役に立たない。私に会えば気迫を受けて、しばらくはよい、と言われた。以前から私に会った人の中で、このように私に会った人はいない。みな良い言葉を聞きに来るか、あるいは正三見物に来る類ばかりである。本当に私に会うことの用いどころは、ただこの一つである。私の気迫を受けなければ、一日に二千度会っても益はないだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、何の変もなくとも、道者の辺を離れぬか能き也。覚えず其人の機移るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、我は言句を聞くに、是れは理致にて分かる事、是れは意にて知る、言句によらぬ事ぢやと云ふ事が、聞きと早や胸にて分かる也。各々も修し行せられば、祖意も言句の意も移つるべし。扨亦機の移つると云ふ事知りめされたるか、我も四季の機抔は其儘移つる也。强く錬鍛へて心さへ磨くれば、四時の機も不浄も無常も移つる物なれども、皆機がういて走る程に移つるへき様なし。しつかとした機無くして修行成り難しと也。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に向て曰く、何れも志は有れども真実起らずと見えたり。何とぞ此方より力を出し、性の肯ふ程授くべし。又曰く、耳如何程あきたるや、心元なし。能き耳を持ちたる者は、人の為めに宝也。因に去る者問、某如きは先づ自己を勤めて、人の為めに法を説かさるか增しかと存ず。此儀如何。師曰く、中々自己を抜かして妄に口を叩き廻はるは悪敷也。只自らも真実を起し人をも勧めて、真実を起さしむるがよき也。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に向て曰く、傍に居れば機移る物也、何れも機移るや、機移ると云ふは勇猛の機一つ也。何と二王不動の像を見ても機うつらざるや、定めて推量には見知り得、移り度と思ふ心は有らんずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、仏像の機を受くる事は、我と受けねば云つては聞かせ難し。合点しても機に受けねば用に不立、我是れ計りをいへども、受けたる人一人も無し。今よりは腹立ちたる時の機を用ゐよと授けんずと思ふ也。此機を用ゐ得ば、病も抜け命も延ぶへし。亦機を抜かし居て、心を砕き身を苦むる者、非業の死も有るへき事也。
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『驢鞍橋』卷上一日衆に向て曰く、何れも强い機を以て人の心を奪ふ位有りや、我はよう前から人の苦みの機望みの機抔奪ふこと上手也。就中愁ひの機抔は、手もなくひつたくる也。是れ强い機の功徳也。