驢鞍橋 / 卷上
去る曉衆に向て曰く、傍に居れば機移る物也、何れも機移るや、機移ると云ふは勇猛の機一つ也。何と二王不動の像を見ても機うつらざるや、定めて推量には見知り得、移り度と思ふ心は有らんずと也。
新字:去る暁衆に向て曰く、傍に居れば機移る物也、何れも機移るや、機移ると云ふは勇猛の機一つ也。何と二王不動の像を見ても機うつらざるや、定めて推量には見知り得、移り度と思ふ心は有らんずと也。
書き下し
去る暁衆に向て曰く、傍に居れば機移る物也、何れも機移るや、機移ると云ふは勇猛の機一つ也。何と二王不動の像を見ても機うつらざるや、定めて推量には見知り得、移り度と思ふ心は有らんずと也。
現代語訳
ある明け方、衆に向かって言われた。そばにいれば、気迫は移るものである。みな気迫は移っているか。気迫が移るというのは、勇猛の気迫一つである。どうだ、仁王や不動の像を見ても、気迫は移ってこないか。きっと、推し量って見知ってはいて、移りたいと思う心はあるだろう、と。
解説
師のそばにいれば、自然とその気迫が移るものだ、と正三は言う。仁王や不動の像を見て、その気迫が移ってくるか、と弟子に問いかける。教えは言葉だけで伝わるのではなく、共に過ごし、姿を見ることで移っていく。一方で、頭で推し量って分かった気になっているだけではないか、とも案じている。優れた人の近くで働くことの意味と、ただ近くにいるだけでは足りないことの両方を示す短い条である。
この章句が説くこと
感化気迫師弟仁王移る共に過ごす
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷上一日曰く、仏像の機を受くる事は、我と受けねば云つては聞かせ難し。合点しても機に受けねば用に不立、我是れ計りをいへども、受けたる人一人も無し。今よりは腹立ちたる時の機を用ゐよと授けんずと思ふ也。此機を用ゐ得ば、病も抜け命も延ぶへし。亦機を抜かし居て、心を砕き身を苦むる者、非業の死も有るへき事也。
-
『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、何の変もなくとも、道者の辺を離れぬか能き也。覚えず其人の機移るべしと也。
-
『驢鞍橋』卷上一日衆に語つて曰く、某殿謂へるは、人に逢つて能き事を聞かんと思ふは僻也。耳にて聞き得る事は用に立つべからす。縦ひ用に立つ事也とも、忘るゝ時は何程聞きてもむだ事也。只度々逢ひぬれば其機を受けて好し。兎角機に移らぬ事は用に立つへからず。我に逢へば機を受けて、しばしはよしと云はれたり。此前より我に逢ひたる人の中に、加様に我に逢ひたる人なし。皆能き言聞きに来り、或は正三見物に来るつれ計り也。誠に我に逢はんは、此用処只一つ也。我機を受けずんば、一日二千度逢ふとも益有るべからずと也。
-
『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、我は言句を聞くに、是れは理致にて分かる事、是れは意にて知る、言句によらぬ事ぢやと云ふ事が、聞きと早や胸にて分かる也。各々も修し行せられば、祖意も言句の意も移つるべし。扨亦機の移つると云ふ事知りめされたるか、我も四季の機抔は其儘移つる也。强く錬鍛へて心さへ磨くれば、四時の機も不浄も無常も移つる物なれども、皆機がういて走る程に移つるへき様なし。しつかとした機無くして修行成り難しと也。
-
『驢鞍橋』卷上一日衆に向て曰く、何れも强い機を以て人の心を奪ふ位有りや、我はよう前から人の苦みの機望みの機抔奪ふこと上手也。就中愁ひの機抔は、手もなくひつたくる也。是れ强い機の功徳也。
-
『驢鞍橋』卷上一日諸人勇猛心をえ受けぬと云ふ時に、師急度吽二王の真似を作して曰く、何と此機移るや、又大手をひろげて口を阿と張り、此機移るや、河州にて如是造りたる阿二王を見る、誰が見ても機の移りさうな二王也。尤も吽もよし其外はどこで見たも大形へご二王計り也。亦自ら模様を作して曰、如是きつとねぢ廻して、じりじりと懸かる処を造りたる仏像、鎌倉覚園寺の十二神の中に有り、中々よき威勢也。我には是れが第一に相応する也。爰を以て果し眼と云ふ事云ひ出して人に授ける也。