驢鞍橋 / 卷上
一日去る女人に示して曰く、女人の心も佛の心も一つ也、煩惱心か、其儘菩提心也、唯用ゐ樣の替りたる計り也。然る間心をはつしと用ゐて、二王坐禪を仕習ふべし。時に人有り云、實に如來坐禪は惡敷事なりや。師聞て曰、是れ惡敷事に非ず、然れども上手藝を初心の者に授くる程に用に立たぬ也。初心の者は先づ二王坐禪が好き也。
新字:一日去る女人に示して曰く、女人の心も仏の心も一つ也、煩悩心か、其儘菩提心也、唯用ゐ様の替りたる計り也。然る間心をはつしと用ゐて、二王坐禅を仕習ふべし。時に人有り云、実に如来坐禅は悪敷事なりや。師聞て曰、是れ悪敷事に非ず、然れども上手芸を初心の者に授くる程に用に立たぬ也。初心の者は先づ二王坐禅が好き也。
書き下し
一日去る女人に示して曰く、女人の心も仏の心も一つ也、煩悩心か、其儘菩提心也、唯用ゐ様の替りたる計り也。然る間心をはつしと用ゐて、二王坐禅を仕習ふべし。時に人有り云、実に如来坐禅は悪敷事なりや。師聞て曰、是れ悪敷事に非ず、然れども上手芸を初心の者に授くる程に用に立たぬ也。初心の者は先づ二王坐禅が好き也。
現代語訳
ある日、ある女性に示して言われた。女性の心も仏の心も一つである。煩悩の心が、そのまま菩提の心である。ただ用い方が変わっているだけである。だから心をはっしと用いて、仁王坐禅を習いなさい。そのとき、ある人が言った。本当に如来坐禅は悪いことなのでしょうか。師は聞いて言われた。これは悪いことではない。けれども、上手な芸を初心者に授けるようなもので、役に立たないのである。初心者には、まず仁王坐禅がよいのである、と。
解説
女性に向かって、女性の心も仏の心も同じだ、煩悩の心がそのまま菩提の心だ、と説く。女性は成仏しにくいとされた時代に、はっきりと平等を語っている。そして、女性にも仁王坐禅を勧める。如来坐禅は悪いのかという問いには、悪くはないが、名人芸を初心者に教えるようなもので役に立たない、と答える。性別で修行を分けず、段階に応じて方法を選ぶという、正三の一貫した合理的な指導観がよく表れている。
この章句が説くこと
女性平等煩悩即菩提仁王坐禅段階指導
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