驢鞍橋 / 卷上
一日師謂衆曰く、何れも道理を離れて修すると云ふ事心得たるや。皆さまざま道理に付き、惡を捨て善に至る迄の心得なるべし。各道理を離れて修する位を云ふて看よ。衆無語。師曰、我に離るる事也。扨道理の間を以て爲す事は、皆能く我を作るなり。只己を盡す、是れ道理を離るる修行也。
新字:一日師謂衆曰く、何れも道理を離れて修すると云ふ事心得たるや。皆さまざま道理に付き、悪を捨て善に至る迄の心得なるべし。各道理を離れて修する位を云ふて看よ。衆無語。師曰、我に離るる事也。扨道理の間を以て為す事は、皆能く我を作るなり。只己を尽す、是れ道理を離るる修行也。
書き下し
一日師謂衆曰く、何れも道理を離れて修すると云ふ事心得たるや。皆さまざま道理に付き、悪を捨て善に至る迄の心得なるべし。各道理を離れて修する位を云ふて看よ。衆無語。師曰、我に離るる事也。扨道理の間を以て為す事は、皆能く我を作るなり。只己を尽す、是れ道理を離るる修行也。
現代語訳
ある日、師が衆に言われた。誰もが、道理を離れて修めるということを心得ているか。みなさまざまに道理に付いて、悪を捨て善に至るまでの心得なのだろう。それぞれ、道理を離れて修める位を言ってみなさい。衆は黙っていた。師は言われた。自分から離れることである。さて、道理の間ですることは、みなよく我を作ってしまう。ただ自分を尽くすこと、これが道理を離れる修行である、と。
解説
道理を離れて修めるとはどういうことか、と弟子たちに問い、答えられない彼らに、自分から離れることだと示す。善悪の道理に沿って努力するのは大切だが、それだけでは、正しいことをしている自分という我を作ってしまう。ただ自分を尽くすことが、道理を越える修行だ、と。正しさを振りかざす人ほど、自分が正しいという思いにとらわれやすい。正しさの先にある、自分を空しくする境地を示している。
この章句が説くこと
我を離れる道理正しさ我執修行問答
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
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『驢鞍橋』卷上一日来者に語て曰く、わがをつ切りの中にも云ひ習ふて、道理の上手は多きなり。然れども修行する者は一人もなし。我此前石の平にて少し沙汰しければ、皆理窟仏法に成るに依て飽果て、ふつと理を沙汰せず、ちよつとよりから一向に修し行する事計りを授くる也。総して仏道には利根知を嫌ふて、只頓機を法器とす。殊に禅法は執着を捨つる一つ也と云ふは、平生切端を用ゆる事也。生死を守ると云ふも切端一つ、禅機と云ふも切端の事也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷上一日意の暗き行者を諫めて曰く、其方は先づ言句を錬鍛べて意に徹すへし。彼者云、某一処を守る機有り、熟せば万事に相応すべき間、言句の意を明めて詮なしと存ず。但し無理に强く修すると、意を受くると差別有りや。師曰、中々意暗くしては修行はかどるべからす、先づ其方は専ら意を受習はるべしと也。